2013.01.31 Thursday

ESSO RACING TEAM STORY 第31回

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



このタイトルを見て、おや? と思われた方は相当なモータープレス通。
実はMP解説当初、1972年からFJ360、FL500、FJ1300に参戦した
伝説のプライベート・ティーム、ESSO RACING TEAMの物語を連載しておりました。

当時の関係者の皆さんにご協力いただき、知られざるストーリーを掘り起こしてきたのですが
昨今は主に僕のサボり癖で休載中。そんな体たらくを知ってか知らずか
先日お台場で見つけたダイハツ・フェロー7の資料を探しているときにこんな物を見つけました。

AUTOSPORT  1969年4月号(三栄書房 刊)

なんと、日本のプライベーターの草分けのひとつでもある、レーシング・クォータリーが
ESSO RACING TEAMのルーツともいえる、”チーム・レーシング・クォータリー(TRQ)"を
設立したという記事。故 山梨信輔代表を中心とした黎明期のメンバーが
青山にあったRQの前で写っている非常に貴重な写真付き。

AUTOSPORT  1969年5月号(三栄書房 刊)

さらに翌月の号には、グッドイヤー・レーシングタイヤの販売店として
店舗を拡大した時の姿も掲載されていました(コニリオやニアルコの広告も気になります)。
なにせ当時の青山のショップの外観の写真は少なく、
広告ながらこれは非常に貴重な資料といえます
(確かに今も残る建物とあまり変わっていませんね)。


なぜ急にそんな話をしたのかというと、1月27日にお台場で行われた
JCCA ニューイヤー・ミーティング会場内のN.Z Racing Sports Clubのブースで、
久々にアウグスタMkIIIに再会したからなのです。

実はこれも今回のNYMの目玉のひとつでありました。
会場にお出かけのみなさん、お気付きになりましたか??

N.Z Racing Sports Club代表である染谷さんが、このNYMにアウグスタMkIIIのカウルを
持ち込んだのは、2011年の時のこと(そのときの様子はコチラ)。
あの時は、1台分のカウルを見せてもらい、非常に興奮したのですが……。


な、なんと今回はカウル2台分。
しかも1台はシャシフレーム付き!
僕の連載休止を尻目に、アウグスタMkIII(当時のエントリー名はエッソ・エクストラ)の
レストアは着実に進んでいたのでした!


染谷さんいわく、このカウルが載せられているフレームは空冷用のモノだとのこと。

かつての連載の中で、デビュー戦となった’72年の日本GPから、ESSO RACING TEAMの
2台のワークスカーはそれぞれ、ホンダN360の4ストユニットと
スズキ・フロンテの2ストユニットの2種類を使い分けていたことはお話しました。

てっきりその2台はエンジンが違うだけで、フレーム自体はまったく同一の物と
思っていましたが、ちょうどカウルの後端の下に位置するフレームサイドにつく
半楕円状のフレームが空冷モデルの証。
水冷モデルはサイドにラジエーターが付くために、このフレームが付かないのだそうです。

AUTOSPORT 1972 5/1号付録 5th TOKYO RACING CAR SHOW(三栄書房 刊)

これはアウグスタMkIIIがデビューを飾った'72年の第5回東京レーシングカーショーの様子。
真ん中にあるのが、空冷仕様。左隣りが水冷仕様。
確かに水冷仕様はラジアスアームの付け根のところに、この半楕円のフレームがないですね!

いやぁ、散々当時の写真を眺めていたつもりですが、初めて気づきました。

AUTOSPORT  1972年 4/1号(三栄書房 刊)

確かにAUTOSPORT  1972年 4/1号の中の
「MACHINE  CONFIDENTIAL インボード・コイルの実戦マシン アウグスタ・マークIII」
(鷲尾基彦 解説)に載っている、青山の工場で撮影された製作中の
フレームの写真にも、この空冷用のフレームが写っていますね。


ちなみに日曜のお台場では、2台分のカウルが展示してあったと書きましたが
ご覧のようにノーズは水冷用(左)と空冷用(右)にカラーリングが
塗り分けられておりました。

いやーまだまだ勉強不足ですね。
今年は、ESSO RACING TEAMが短い活動に幕を降ろしてから
ちょうど40年にあたる節目の年ですから。
なんとか纏めないと(会う人みんなに言われます……)!
染谷さん、ありがとうございました!!

ではでは。




2012.04.21 Saturday

40年ぶりのラインダンス!

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



昨日のこと、ESSO RACING TEAMマネージャーであった尾崎郁夫さんの呼びかけで
約40年ぶりに当時のメンバーが集まり、ESSO RACING TEAMの同窓会が開催されました。

これまでこのモータープレスで不定期連載してきましたが(更新なくてスイマセン)、
ESSO RACING TEAMは、1972年に東京 青山にあったレーシングクォータリーを母体に
ESSOのフルスポンサードを得て、FL500&FJ1300に参戦したプライベートティーム。

それは大企業がプライベーターを全面支援する
レーシングティームの先駆けでもありました。

そんなESSO RACING TEAMの物語を調べようというきっかけになったのがこの1枚の写真。


1973年8月12日に開催された鈴鹿グレート20ドライバーズレースの後
鈴鹿サーキットのレストラン前でティーム全員で撮影されたラインダンスの写真。
撮影をされたのは、当時オフィシャルカメラマンを務めていらした

現在、猪口さんは東日本大震災のルポをされているため、残念ながら
参加できなかったのですが、せっかく約40年ぶりに再会したのだから……と
撮影されたのがこの写真!


約40年ぶりのESSO RACING TEAMの面々によるラインダンスです!

では今回のメンバー(敬称略:肩書きは当時)を左からご紹介しましょう。

解良喜久雄(RQCエンジニア)、由良拓也(デザイナー)、尾崎郁夫(RQCマネージャー)、
嶋田豊(ESSO宣伝課長)、高橋晴邦(ドライバー)、高津信子(ESSO宣伝課)、
鮒子田寛(ドライバー)、西尾直毅(ESSO宣伝課) 、宮坂宏(RQCメカニック)、
佐藤義人(RQCメカニック)、田中功(ESSOイノベーション)

どうです? ものすごい豪華なメンバーでしょう!
まだ皆さん20歳代から30歳代前半だった頃に、本気でF1に行ってやろう!!
世界に飛び出してやろう!! としていたわけですから
(そしてそれぞれのアプローチでそれを実現されたわけですから)
改めて情熱的で面白い物語だったと実感した次第。



2時間あまりの同窓会でありましたが、40年ぶりに掘り起こされる話
40年ぶりに明かされる秘話! など、タイムスリップするかのような
楽しい時間を過ごせました。皆さんありがとうございました。

それにしても1972年に生まれたレーシングティームの話を
1972年に生まれたボクが、ひょんなことから取材してきた……というのも
何とも不思議な縁だな……と(笑)。


そして、ESSO RAING TEAMには欠かせないキーマンのひとりである
由良さんが持参したファイルの中に収められていたものは!

この続きはまた来週!!

ではでは。




2012.03.26 Monday

伝説のFJ1300、ノバ01は蘇るか?

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



こんばんは。
皆さん某オークションサイトにかつてESSO RACING TEAMから
1973年のFJ1300シリーズに参戦していたノバ01が出品されていたのをご存知でしたか?
 
実は先日、このコメント欄にchroさんから書き込みをいただき(多謝!)
かなり本気で落札すべく、設計者の解良喜久雄さんや、デザイナーの由良拓也さんなど
”ホンモノ”の方々を巻き込んで、静かに深〜く盛り上がっていたのでした。

まぁ、来年でノバ01誕生40周年ですし、来月にはESSO RACING TEAMの面々が集まる
プライベートな同窓会も開かれることになってますし、
これも何かの縁とばかり、連日解良さんとの間で(結構マジな)
レストア計画まで検討していたりしました(笑)。

photo:尾崎郁夫

しかし結論から言うと、ボク個人の資金力の限界であえなく敗退(泣)。

でも、ホンのちょっとだけ良い夢を見させていただきました。
(個人的には、すべて当時のスタッフの手でレストアする
 プロジェクトをしてみたかった!)

ただ、今回の調査で分かったこともいくつかありました。
そのひとつがウインドスクリーン。
出品されていた個体(元日産A12搭載車だとか※)のフロントスクリーンは
この写真の時のような2分割(由良さんいわく、コンコルドデザインと呼ぶのだそう)では
なく一体型になっていたのですが、由良さんによると一体型は後期の生産型に使用された
ものなのだそうです。

また解良さんの見立てによると、リアフレームなどは現在搭載されていた
スバルの水平対向エンジンを載せるために、一部改造されていたようですが
アップライトなどはオリジナルのまま残っているようだ、とのこと。

いずれにしろ、日本のコンストラクター自製のフォーミュラとしては
極初期の作品のひとつで、おそらくノバ01の現存は1台のみでしょうから、
新オーナーの元でしっかりと考証されたのちに、復活するといいな!
と、個人的に思っております。

※73年のESSO時代は綱島チューンのトヨタ3Kユニットですが、その後74年シーズンに 
ノバ(ESSO)から出場したクルマは日産A12に載せ換えられて参戦。
さらにノバの2台以外にも、柳田春人さんがA12を搭載したシャシーを1台購入しています。
その後、ノバワークスの1台は無限MF318を搭載し、スポーツカーノーズになったり
色々改造されていくので、おそらくオリジナルESSOの1台か、もしくは柳田ノバか?
と思うのですが……。

あ、ちなみに、かつて船橋サーキットが輸入したロータス22
(現在は第4回日本GPにハセー・ボブがエントリーした時のままの仕様)も
某オークションサイトで売りに出ていますよね。
欲しいなぁ(涙)。

その前にESSOの物語も纏めないとね! 

ではでは。
2011.06.23 Thursday

ESSO RACING TEAM STORY 第30回

 


Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



―― ESSO RACING TEAM STORYは、1970年台の初頭に
東京・青山の片隅で、真剣にF1を夢見て集まった若者たちの情熱の物語です。



【幻のアウグスタMk2 つづき

昨日お届けしたアウグスタMk2のお話。
色々反響をいただきありがとうございます。

そんな中、情報を提供していただいたN-Z Racing Sports Club
染谷代表から、アウグスタMk2のノーズに搭載されていた
燃料タンクの写真が送られてきました。


昨日ご紹介した、戸張号の写真にもありましたが
ノーズの形に合わせた特徴的なスタイルのタンクになっています。


リアから。


これは裏面。

AUTO SPORT (三栄書房刊)より

当時のAS誌に載っていたアウグスタMk2の透視図を見ると、その構造が良くわかります。
ノーズに搭載した燃料タンクの安全性はもちろんですが、
こんな部分にレース中に内容量が変わってしまう燃料タンクを積んで
操縦性が変わってしまったりはしなかったのでしょうか?
(つづく)

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【イベントのお知らせ】

このモータープレスでもお馴染み、テクニカルイラストレーターの大御所
大内誠さんが中心となって、10月8日(土曜日)千葉県茂原ツインサーキットで
『リバイバル・モータリング・ジャパン in 茂原』というイベントが開催されます。

これは今から30数年前に、筑波サーキットで開催された 
「クラシックカー・フェスティバル」に倣った新しいヒストリックカーイベントで
本格的なレース形式ではなく、車格にもこだわらない
「誰でも気楽に、楽し く参加できるイベントを再現したい」という主旨のもと
開催されるものです。
詳細は上記のインフォメーション、もしくは公式ブログをご参照になってください。











2011.06.22 Wednesday

ESSO RACING TEAM STORY 第29回

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



―― ESSO RACING TEAM STORYは、1970年台の初頭に
東京・青山の片隅で、真剣にF1を夢見て集まった若者たちの情熱の物語です。



【幻のアウグスタMk2

今回のESSO RACING TEAM STORYは、ちょっと時計の針を前に戻して
ESSO設立以前のRQ(レーシング・クォータリー)時代のお話をお届けしましょう。

先々週のこと。今年1月にお台場で行われたJCCAニューイヤーミーティングで
N-Z Racing Sports Clubの染谷代表から
「いまならアウグスタMk2のフレームがあるけれど見に来ませんか?」
というお誘いを頂いたのです。

そこで対面したのがコレ。


染谷さんによると、その昔埼玉県のお寺! に
長らく保管されていたものを譲ってもらったものなのだそう。
この後愛知のオーナーの方に引き取られレストアが行われる予定だそうです。


角型のパイプで組まれたシャシーは、のちのMk3と比べても比較的シンプルな構成。


このフロントに、燃料タンクが取り付けられていたのですが(下写真参照)、
染谷さんによると、どうやら燃料タンク自体が、
カウルのステーの役目も果たしていたようです。



また、ちょっと頼りないロールバーは、一体ではなく
頭頂部中央でパイプを溶接&整形した跡が見受けられました。

そして、このフレームの写真を見たBob日高さんから、以下のような
メールをいただきました。

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アウグスタの個体が生息しているんですね。
レストアが済んだら実車を見たいものです。
 
1967年、船橋サーキットで開催された「RQCミニカー・トライアル」に始まって、
FL500が消滅した70 年代終わり迄に登場した全てのFL360とFL500を一同に揃えたら、
当時のコンストラクター達が如何に情熱に燃えてマシンを製作していたかが判る筈です。
「何も知らない」「何も解らない」「何も無い」
「大体、フォーミュラなんか見た事も無い」……当時の人達は皆
"無いものづくし” でフォーミュラカーを造り始めたんです。
 
渋谷のRQガレージで、解良さんがアウグスタのフレームを組んでいる
光景を今でもはっきり覚えています。
既に遠藤さんはRQを辞めて、新しいメカニック(お名前を失念)が
解良さんの助手を務めていました。
当時の ”常識” とは、「シームレス丸型断面鋼管」を低温蝋付け溶接して
スペースフレームを組み上げる事でした。
"チャンネル(角型断面鋼管)"は、故・鴻池さんが先鞭を切って
FL500に採用したのではなかったでしょうか。

薄らいだ記憶の中では、1969年か1970年の「鈴鹿シルバーカップ」
第1戦に登場したマシンがそうだったと思います。
在りし日の鴻池さんが、それは目を輝かせて(確か彼は河内弁を話していました)
「エェ車やろ」と自慢げに話していました。
チャンネルは丸型鋼管と比較すると溶接加工が容易な反面、
強度が落ちるの欠点がありました。
そこで、アルミパネルをチャンネルにリベットで固定して
ストレスを分散する手法が採られました。
やがて、アルミ・ツイン・モノコックが主流に成る迄の過渡期、
チャンネルとアルミ・スキンの組み合わせが盛んに採用されました。
 
渋谷のRQガレージで戸張君のアグスタが完成した時、
解良さんが「勉強になるから一度コックピットに座ってみろよ」と誘って下さいました。
アウグスタの左側から、先ず右足をコックピットの中に入れ、
次いで左足を床から持ち上げた途端、”ゴトン”と云う鈍い音がしたんです。
すると「ダメダァァァ!!! ノーズが地面にクッツィチャッタ」と解良さんの叫び声が。
戸張君の体重は確か60kg以下、それに対し当時の私の体重は100kgを超えていたんです。
その時、私はフォーミュラカーに乗る事を永久に諦めました。

以後、私は自分のローラT89/50、ローラT90/50、レイナード90D、
ラルトRT34、ダラーラ389の何れにも、唯の一度もコックピットに
座る事は在りませんでした。
但し、私の会社の税理士さんが購入したレイナード913
(ex ジル・ド・フェラン/1991年ブリティッシュF3チャンプカー)
のコックピットには、何度か座りました。
現在67kgに迄体重が減った私なら、アウグスタMk2にも乗れるかも知れません。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


戸張さんが1971年シーズンに乗ったアウグスタMk2の製作過程の裏側には
そんな裏話があったのですね。それにしても、日高さんの記憶力には驚かされるばかり。

残念ながら、当時のアウグスタにはフレームナンバーやシャシープレートの類いはなく
今残るクルマが、ex戸張車なのか? ex高原敬武車なのか? 
それとも鮒子田さんや、米山さんがドライブしたex RQワークスカーなのか
それとも、また別の個体なのかは判然としません。

ただ、染谷さんの証言では、引き上げてきたときのカウルのカラーが
赤ではなくオレンジ色だったとのことですから、
1971年のオートスポーツ・トロフィ第5戦で風戸裕もドライブした
ex RQワークスカーである可能性もあると思います。


いずれにしろ、このアウグスタMk2が復活し、Mk3ともども
我々の目の前に再び姿を見せてくれることを願わずにはいられません。
染谷さん、貴重な物をみせていただき、ありがとうございました。

次回のESSO RACING TEAM STORYは、このMk2でフォーミュラ・デビューを
果たした、あの大物レーサーにご登場いただく予定です。
(つづく)





2011.06.07 Tuesday

ESSO RACING TEAM STORY 第28回




Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



―― ESSO RACING TEAM STORYは、1970年台の初頭に
東京・青山の片隅で、真剣にF1を夢見て集まった若者たちの情熱の物語です。



【ワークス落ちの営業車……後日談

前回、番外編として1972年から73年にかけて
ESSO RACING TEAMのマネージャーだった尾崎郁夫さんが
営業車兼アシとして使っていたexワークスのP510ブルーバード(!)の
エピソードを紹介したところ、案の定? 大反響をいただきました。

ということで、ちょっと寄り道(こういう寄り道大好きです!)して
exワークスのP510尾崎号の話を掘り下げてみましょう。

このワークスP510が、1969年の日本サファリラリーの副賞だった!
というのは、前回の記事でもお知らせしましたが、
その優勝者であり、初代オーナーである稲葉一義さんが
このクルマについて記事を書いている! という貴重な情報を寄せてくださったのは、
ホンダ ツイン カム クラブの重鎮、鈴木さんでした。

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ご無沙汰しております。
尾崎さんのP510、Bob日高さんの件拝見しました。
物凄い方たちですね。

尾崎さんの510についてオートテクニック70年2月号に稲葉一義さんに
よる紹介記事がありました。どこかに記憶があり探しましたらありました。
よく見ますと68年後期以降のボディかと思われ、ワイパーが喧嘩ワイパー
ではありません。稲葉さんの記事では「日本サファリラリー」の賞品で獲得
した69年サファリラリー仕様のSSSとなっています。
内装機器はハルダスピードパイロットやフューズボックスは同じようですが
ハルダツインがシングルマスターです。内装はともかくとしてまたまた謎が
出て来ましたね。

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ということで、鈴木さんに見せていただいたのがコレ。


『オートテクニック1970年2月号(山海堂 刊)』
この中に”ラリー用特別装備の実際”というタイトルで
稲葉さんによる記事が掲載されています。


その記事に出てくるクルマがコレ。確かに鈴木さんの仰る通り
最大の特徴であるワイパーが喧嘩式になっていません。
また記事中で稲葉さんは
『なお説明に用いた車両は、昨年の「日本サファリラリー」の賞品として
 獲得した、69年サファリラリー仕様のブルーバードSSSを使用した』
と書かれています。

そこで改めて尾崎号の写真を。


これは尾崎さんの元に納車された直後に撮影された写真。
よく見ると、よく似ていますが、ワイパー以外にもフォグランプが2灯になっていたり
バンパーにオーバーライダーが付いていたりと随分違いが見受けられます。


そして決定的な違いはナンバープレート。
オーテク誌の個体が『品川51 21-36』だったのに対し
尾崎号は『品川55 69-79』。尾崎さんによると、このナンバーは
稲葉さんの元に納車された時からそのまま
付いていたものだそうで……ということは、オーテクの個体とは
別物ということでしょうか? 謎は深まるばかり。


確かにエクイップメント類は似ているのですが
まったく全て同じものが付いているというわけでもないのですよ。


これは『日本のショーカー 1 1954〜1969年(二玄社 刊)』に載っていた
1967年の東京モーターショーに出品されたP510ブルーバード・ラリー仕様の写真。
この時の展示車は喧嘩ワイパーを装着。
しかしながら、フォグランプが3灯だったり、
ドライビングランプの形状が違ったりと、尾崎号との差異も多い。


一方、こちらは1968年の東京モーターショーに出品車。
こちらも装備の一部に違いが見受けられる上
ワイパーが通常のタイプとなっています。
(1970年のサファリ優勝車はフロントに派手なオーバーフェンダーが
 付いていたりと完全な別物ですよね)

果たして稲葉車=尾崎車なのか? 
それとも副賞の個体が、稲葉さんの所有中に
なんらかの理由で入れ替えられたりしているのか?
それともオーテクで取材したクルマは、普段稲葉さんが
ラリーに使用していたSSS を取材したに過ぎなかったのか?

モノがモノだけに、真相が明らかになることは難しそうですが
日本モータースポーツ史の裏のミステリーとしては
なかなか面白い研究課題になりそうです。

ちなみに同時期に放出されたexワークスの石原プロ所有車については
これまたportago さんから、当時都内にあった秋山自動車に
よく置いてあったという書き込みを頂き、そちらの方の行方も気になるところ。

日産系に強いマニアの皆さんからの追加タレコミ、お待ちしております。


さらにBob日高さんの回想を見て
lotus49fordさんがもしや? と書き込んでくださった
AK250のエンジンを流用したフォーミュラ“キング・スペシャル・ガタロ”はコレ↑。

ネタ元は鈴木さん提供のAUTO SPORT 1969年1月号(三栄書房 刊)です。
大阪の日柳政俊さんが、商都日産レーシング・チームのメンバーとともに
作り上げた自作のフォーミュラで、最初はサニー用の1000ccエンジンを積んで
レースに出ようと計画したものの、
『強度とか、安全性にまったく自信がなく(本人 著)』
ホンダS600 → ホンダS500 → ホンダT360と使用するエンジンを
どんどんランクダウン(!)させていったという、異色の1台なのです。
(しかもKSCC鈴鹿ミーティングにエントリーするも決勝を辞退!)

果たしてBob日高さんの幻のフォーミュラが
どんな形で生まれる予定だったのかも気になりますね。

ということで、かなりディープすぎる内容でしたが
モータープレスおよびESSO RACING TEAM STORYでは
このような情報提供を歓迎しております。
なにか面白いネタを見つけられたら
motorpress.jp@gmail.com
までご連絡ください!





2011.06.01 Wednesday

ESSO RACING TEAM STORY 第27回



Motor Press
(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



―― ESSO RACING TEAM STORYは、1970年台の初頭に
東京・青山の片隅で、真剣にF1を夢見て集まった若者たちの情熱の物語です。



【営業車はワークスカー!?

ESSO RACING TEAM STORYが始まって暫く経った頃
コメント欄に以下のような書き込みが寄せられました。

「藤原さん
 元・RQの尾崎さんに尋ねて下さい。
 昔、尾崎さんは、日産自動車ワークスティーム(特二)が
 510でサファリ・ラリーに優勝した時のスペアカーを所有されていました。
   今でもあの510は現役なのでしょうか?」

このコメントの主は、毎回ディープでマニアックな
話題を提供してくださるBobさん。
早速、その話題をESSO RACING TEAMのマネージャーだった
尾崎郁夫さんに振ると、今まで見た事のなかった写真が出てきたのです。



「懐かしいですね。そう、確かにESSOの頃、僕はP510ブルーバードの
 元ワークスカーをアシにしていました。手に入れたのは1972年末のことだと思います」


尾崎さんによると、このクルマは1969年7月4日から6日にかけて
SCCN主催で開催された“日本サファリラリー”の優勝者である
稲葉一義さんに、副賞(!)として贈られたもので、
日産ワークスがサファリ用のテストカーもしくは
スペアカーにしていたという、正真正銘のワークスカーなのだといいます。

「稲葉さんはこのクルマにほとんど乗らず、湯河原の方に住んでいた方に
 譲られたそうです。その後、その方も手放すことになるのですが、
 その話を僕に持って来てくれたのが、Bobさんこと日嗣紊気鵑世辰燭鵑任后

そう、いつもコメントをくださっていたBobさんは
このESSO時代のRQCを良く知る人物のひとりだったのです。
そこで我々は、Bobさんこと日嗣紊気鵑砲会いすることにしました。



日高さんは、東京生まれの東京育ち。
高校2年生の時、自らホンダAK250のエンジンを使って
フォーミュラカーを作ろうと思い立ったのが、そもそものきっかけだと言います。

「当時はピロボール一つ入手する事も困難だった時代だったんです。
 パーツが欲しくてRSCに手紙を書いて、いざ買おうと思うと
 グランプリの前にメーカーに全部パーツを持っていかれちゃったりしてね(笑)。
 そんな難題が続いて、この計画は2年目に頓挫しました。
 ただ、その流れでレーシング・クォータリーにも足繁く通っていました。
 ちょうどRQCがジュニア7チャレンジ、オートスポーツ・トロフィー
 ミニカー・フェスティバルなどを相次いで主催している頃でして。
 あるとき、山梨さんに“オフィシャルやれよ”と言われて
 RQCミニカー・トライアルの技術委員を始めまたんです」

以来、日高さんは技術委員としてオフィシャルを長い間務めることになります。

「NAC(日本オートクラブ)、FISCOクラブ、
   GSS(グループ・オブ・スピード・スポーツ)にも所属し、
   富士と鈴鹿の両方でオフィシャルを勤めました。
   富士と鈴鹿の両方でオフィシャルを勤めたのは私ひとりです」

しかし1976年の筑波でレース中の事故に巻き込まれ重傷を負った日高さんは
そこでオフィシャルとしてのキャリアにピリオドを打ちます。
そこから暫くは、レースから離れた生活を送っていたそうですが
1985年にたまたま鈴鹿サーキットを訪れたのを機会にオフィシャル業に復帰。
F1日本GP開催のために尽力したのち、1989年には
パオロ・バリッラを擁したティームを立ち上げ、全日本F3000ティームに参加。
ほぼ同時期に、古谷直広選手を擁してF3ティームも立ち上げ
イタリアF3、全日本F3(90年度ランキング2位)に参戦した経緯をお持ちです。
さらに、その後はF1のスポンサー・ハンティング・ビジネスを手がけ
ベネトンのフラビオ・ブリアトーレとは通算で4年間仕事を続けたそうです。

いわば日本(世界?)レース界の生き字引的存在。
それゆえ、Bobさんから寄せていただくコメントは、広く深いモノだったのです。


さて。尾崎さんとブルーバードの話に戻りましょう。
1972年末、以上のような経緯からすでに日高さんとは懇意にしていた尾崎さんは
「湯河原でワークス・ブルーバードを売りたい人がいる」
という話を日高さんから聞きつけ、すぐに購入を決意したと言います。

「そもそもラリーが好きでしたからね。それに加えて僕はこのP510ブルーバードが
 大好きで何台か乗り継いだほどですから、そのワークス仕様は究極の1台だったんです」



今も尾崎さんが大事に保管されているブルーバードの写真を見ると、
確かに内外装ともスペシャル・エクイップメントをフル装備した
クルマであることが分かります。ただし、ワイパーがサファリに出場したのと違う
初期型の"ケンカワイパー”であることから、1967年の東京モーターショーに
参考出品されたラリー仕様と、同時期に製作された1台という可能性もあります。
(納車時にオドメーターは数万キロを記録していたという)

「エンジンにはSUキャブが付いていましたが、おそらく放出するに辺り
 ディチューンしたエンジンに載せ換えられたものだと思います。
 しかし、それでも吹け上がりのスゴく良いエンジンでした。
 また、ボディにもすごく剛性感があって、グラベルを飛ばしてもストラットタワーに
 クラックが入るなんてことはありませんでした。
 特にスゴいな〜と思ったのは、ダートを飛ばせば飛ばすほど乗り心地が良いことです。
 この時代のギャランとは何処に行くか分からないクルマでしたからね(笑)。
 だからFISCOからの帰りなんかは、中央道や東名道を走らないで、
 この車で丹沢の北を抜ける地方道をかっ飛ばしたもんです。 
 当時は7割方グラベルでしたが、府中の家へ帰るのに
 渋滞した高速より遥かに速かったですよ(笑)。
 それにしても元ワークスカーにナンバーがついて放出されるなんて
 当時としても考えられない話でしたね。確かナンバー付きの元ワークスカーは
 石原プロも所有していて、駒沢にあった自動車工場で見た事があります」

尾崎さんはこのワークスカーをアシ代わりに乗って、日々ESSO RACING TEAMの
営業に使っていたと言います。

「当時、ESSOの本社がTBS会館の中にありましてね。その前に石田商事って
 ESSOのSSがあるのですが、よくそこにクルマを停めさせてもらって
 営業に行きました。もちろん当時はこれ1台ですから、新婚旅行にもこれで行ったし
 生まれた長男を病院に迎えに行ったのもこのクルマでしたね(笑)」

そして、シーズンオフの時にはこのワークスカーを駆り
月刊ザ・モーター主催の“青木ヶ原ウインタークロス”にも出場しています。



「サイドに大きくESSOのステッカーを貼って出場しました。
 RQCの社員だった吉田君をコドライバーにして出場したはずですよ。
 とにかく、このクルマには色々な想い出がありますね。
 営業車に使って、背広来て街を走っていると、
 交差点で怪奇の目でジロジロ見られました(笑)。 
 FIAMMの7連エアホーン(当時は問題でなかった)で
 ピララピララピーと都内を流していましたよ。
 あと、トヨタの綱島にも、これで乗り付けたことがあります。
 日産のワークスカーが綱島に入ったのは前代未聞だったんじゃないですか(笑)?」

そこで最初に日高さんの疑問に戻ります。
尾崎さんのアシとして、ESSO RACING TEAMの営業車として
活躍していたこのワークス・ブルは、その後どうなってしまったのでしょう?

「1974年になって僕がESSO RACING TEAMを離れた時に
 お金もなかったので売ってしまったんです。ザ・モーターの売買欄に載せて
 もらったら、発売日に買いたいって連絡がありましてね
 大阪に住む竹中工務店の社員の方が、現金もって引き取りにきましたよ。
 確か100万円持参して! しかもそのまま乗って帰りました。書類は後でイイと……。
 その後、このクルマがどうなったか消息は聞かないですね。
 今でも残っていたら嬉しいですけど」

今回、貴重な情報をご提供いただいた日高さん(そのストックされた
資料は実に膨大なもの)には、また改めてご登場いただく予定です。

というわけで、ESSO RACING TEAMの知られざる1ページをお届けしました。

次回はまた1973年のFJ1300シリーズに戻る予定です。

(つづく)














2011.05.09 Monday

ESSO RACING TEAM STORY 第26回

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



―― ESSO RACING TEAM STORYは、1970年台の初頭に
東京・青山の片隅で、真剣にF1を夢見て集まった若者たちの情熱の物語です。



【3Kユニットを搭載したGRD F3

前回、TMSC-Rのエースであり
1973年シーズンからESSO RACING TEAMの一員として活動した
高橋晴邦さんのインタビューをお送りしましたが
古いAUTOSPORT誌(三栄書房刊)にこんな記事を見つけました。

AUTOSPORT 1973 5/15より

巻頭のカラーページで2Pにわたり紹介されていた記事のタイトルは
「GP 照準! 2リッター・セリカがフル稼働
 3Kエンジン付きGRD・F3も初試走」


そこに掲載されていたのは、真新しいGRD 372 F3をドライブする
高橋晴邦さんの姿。
記事によるとエンジンテストが主目的で、タイムは1分33秒台だったとか。
GRDもトヨタが3KをFJ1300用に転用するにあたり、
テスト用として購入したものとあリ、GPにはRQとヒーローズに
3Kを貸し出し、トヨタとしての実戦投入の意志はないとあります。

この件について晴邦さんに伺ったところ

「記憶では、ノバに3Kエンジンを貸し出す前にテストをしなくては、
 とのことだったと思います。
 綱島には、もう、当時の担当者はいないと思います(年齢的にも!)。
 現在のスタッフで知っているとすれば川幡メカニック
(2005年に僕とラグラセカに行ったトヨタ−7の担当メカ)
 くらいだと思いますが、彼も既に定年になったかも……」

とのお返事が。

いずれにせよ、日本GPに投入するセリカとともにテストをするなど
当時のトヨタが本格的にFJ1300用の3Kに取り組んでいた様子がうかがえます。

となると、トヨタのワークスエンジンが市井のプライベーターに
貸与されることになった経緯について、当時の綱島の関係者の皆さんに
取材する必要がありそうですね。

ところで、このトヨタの購入したGRD372は一体どこへいったのでしょう?
当時寺西孝利さんが、FJ1300にGRD 372 A12で参戦していますが
これは英国で前年に桑島正美さんがドライブしていた個体でしたからね。

トヨタがこの手のテスト車輛を中古で購入するとは考えにくいですし……。
もしかして一度も実戦に投入される事なくスクラップとなったのでしょうか?

(つづく)



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ESSO RACING TEAM STORY 第4回
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2011.04.30 Saturday

ダブルバンパーVWの持ち主?

 

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前回のESSO RACING TEAM STORYで紹介した1枚の写真。

この写真を見た、VW狂の小池さんこと、元カー・マガジン編集部 滝澤隆久さんから
背景のダブルバンパーのVWビートルが気になる! という書き込みが寄せられました。

すると、これまたコメント欄の情報提供でお馴染みのBobさんから
以下のようなお返事が……。

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「小池」さんが注目されていた“ダブルバンパーVW”の持ち主ですが、
富士スピードウェイの職員で、「コース管制長」や「計時委員長」も務めて居られた
津野さんのお車ではないでしょうか。
写真の様子では、平日のスポーツ走行時間帯のAパドック(当時の呼称)の
光景ではないでしょうか。
コントロール・タワー下に一般車輌が駐車出来たのは、
レースが開催されていない平日だけだからです。
40年も昔の話なので不確実なお答えで済みません。
富士スピードウェイ職員の坂本さんに尋ねれば、正確な情報が得られると思います。
但し、お二人とも既に定年退職されている思います。
お二人は、FISCOが「原野」だった頃、それこそ整地の建設現場に居られた方です。
そのVWとNOVA FJ1300の間で、右手にボードを持ち立って居られる方は
「オートスポーツ」の記者さんです。
当時の三栄書房の記者さん達の名詞を見ながら、
この方のお名前を思い出そうとしたのですが、断念しました。
 

とのこと。

ちなみにこの写真が撮影されたのは、ノバのゼッケンから推測するに
高橋晴邦さんのFJ1300デビュー戦となった
1973年6月17日にFISCOで開催された
FJ1300シリーズ第2戦、RQCフォーミュラチャンピオンレースの前後かと思われます。

いやぁ面白い。最近、旧車探偵みたいになってきましたね、モータープレス(苦笑)。

追記:その後、ESSOマネージャーの尾崎さん(左のタイヤ押してる人物)と
鮒子田さんから連絡がありましたが、背後のAS誌の記者は
編集長を務められた「井上寿一」さんでした。



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2011.04.27 Wednesday

ESSO RACING TEAM STORY 第25回

 
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―― ESSO RACING TEAM STORYは、1970年台の初頭に
東京・青山の片隅で、真剣にF1を夢見て集まった若者たちの情熱の物語です。



【忘れられない3つの出来事

撮影:猪口勝男

1973年6月のRQCフォーミュラチャンピオンレースで
ESSO RACING TEAMの一員としての活動をはじめた高橋晴邦さん。

この年は、TMSC-Rとしてのトヨタ・ワークスでの活動のほか、
シグマ・オートモーティブの一員として、生沢徹とともに
シグマGC73で富士GCシリーズにも参戦するという
多忙なシーズンを過ごします。

それは、必ず国産車で世界の舞台に挑戦したい! F1に行きたい!
という夢を実現するために必要なステップだったのですが
一方でこれまでのワークス時代とは違う苦労を味わう事にもなります。

「当時はね、アマチュアのドライバーがGCとかF2000に出てて、
 僕らの感覚として技術的にもアマチュアのレースという感じだった。
 ……実態は別にしてもね。
 ワークスはトヨタも日産の連中もみんなそう思っていたと思うね。
 黒澤さんが出て行ってすぐチャンピオンになっちゃうわけだから。
 確かにワークスドライバーって走る機会が多いわけ、
 アマチュアではそこまでできないから、差が出るのは当然なんだけど」

当時の心境を晴邦さんはそう振り返ります。
しかし、いざ自分がプライベート・ティームに身を置くようになると
別の一面が見えて来たと言います。

「ESSO時代で覚えてるのは3つ。
 まずは、鈴鹿の第3コーナーで突っ込んじゃったこと。
 僕はレースも練習も含めてスピンやクラッシュが
 ほとんどなかったからこれは良く覚えてる。

 確か予選を走れず、最後尾からスタートして20周くらいのレースでしたけど
 ドンドン抜いて8周くらいで5位に来ちゃった。
 で、目の前に先頭集団が見えたわけ。
 その直前のレースでは黄色いマーチに長谷見くんが乗って
 ピューッと行っちゃうから追いつけなかった。
 だけど、このレースは長谷見くんの代わりにトッペイちゃん(都平健二)だったから
 見えるわけよ、前にいるのが。失礼だけどトッペイちゃんなら
 抜けるって思って、誰かは忘れたけど前にいたクルマを
 無理矢理第3コーナーで抜こうと思って
 インを突いたら、オーバースピードでそのまま
 ガードレールに突っ込んじゃった。
(注:当時のAS誌には前車のスピンに巻き込まれたという記述もある)

 帰ってきたらオケラにホント、怒られてさ(笑)。
 “なんでまだ半分もレースが残ってるのにあんなに無理するんだって!”
 勝てるレースだったのに、と、それは覚えてる」

そう振り返るのは1973年8月11日〜12日にかけて鈴鹿サーキットで行われた
鈴鹿グレート20ドライバーズレースでのこと。

初戦のRQCフォーミュラで6位入賞、そして6月30日に行われた
’73日本オールスターレース(富士スピードウェイ)では予選3位を獲得するも
決勝では6位入賞(優勝は真田睦明 日興エージェント・べルコ)と、
イマイチ波に乗れていない事への焦りがあったのでしょうか?
このシーズン、唯一勝てるチャンスのあったレースを
晴邦さんは自らのミスで落としてしまったのです。
ちなみにこのレースの優勝は都平KE ミノルタ・マーチ。
2位入賞は、ティームメイトのエッソ・ユニフロを駆る鮒子田さんでした。



「他に覚えているのは、どのレースか忘れたけど、トップを走ってたの。
 で、あと数周で勝てるって時にストレートでバーストしたんだよ。
 その頃のBSのバイアスタイヤは開発途上でね
 小平研究所の吉田さんってエンジニアが色々とトライするのだけど
 今一信頼性がなかったね。
 完全に剥離バーストしてリタイアしちゃった。

 もうひとつは、シーズン最初の頃だと思うけど、
 レース中にパンクしたからコトコトコトコトゆっくりとね、
 ピットに走って戻ってきた。サーキットって見えないところもあるから、
 ティームが心配すると思ってね。

 なんとかピットまで戻ってきたら、オケラがいきなり僕のシートベルトの
 バックルをガチャーンと外してグーって僕を引っ張りだして、
 “なんだよー! まったく”とか怒ってるわけ。
 こっちも何怒ってんだよって言ったら、
 “もうレースに戻れないってわかってるのに、こんなに走ってきたら
 ホイールがダメになっちゃうじゃないか! もう終わりー! ”って。
 バカヤロー、俺はお前らが心配すると思って戻ってきてやったのに!
 って言ったら
 “だからワークスドライバーは嫌いなんだ!” って(笑)。
 “ホイールが1個パーになっちゃった”って怒ってるの。

 こういう時は、ワークスだとホイール云々より何とかして
 ピットまで戻るように言われていたからね。
 それがワークスとの違いなんだろうけど、当時は俺もカーッとなんてね(笑)。
 オケラと僕は同じ年だから、頭に来てしばらく口きかなかったもんな。

 鮒子田はね、性格的に温和だから、そういうことが起きても
 “オケラがまた癇癪おこした”なんて、冷静な態度なんだけど、
 僕の場合はそうじゃないから、同じように怒っちゃうわけ。
 なんだこのやろーって。それが面白い。でもお互いには
 分かり合ってるわけよ。
 仲はいいから。年が同じってこともあるかもね」

 
この年、晴邦さんがなかなか好成績を挙げられない原因には、
常勝サニーエンジンに対して非力なカローラエンジンなど、
様々な要因があったのは事実です。
しかし、晴邦さんは“そういうことは言い訳だけど”と
前置きをした上でこう続けます。

「まぁとにかくプライベーターはワークスの時とは、もう全然違ったね。
 それはシグマも同じ。1年やってみてコレじゃあル・マンには勝てないし
 F1にも行けないって痛感した。それに時同じく、
 トヨタ自動車のレース界撤退が決まり、僕もレースを辞めようと決めたんだ。

 辞めると言ったら、いろんなとこがきたよ。酒井(正)君も来たし。
 ただ日本でずっとやる気はなかったのと、仲間もいっぱい死んだしね。
 それに子供が生まれたというのもあった。
 あとオヤジと30歳までで辞めるって約束もしていたし……。

    いまこうして振り返ると、例えば鮒子田とか館とか長谷見とか、
 彼らほどクルマが好きじゃなかったのかもと思うよね。
 僕は勝負事が好きなんだけど、彼らは本当にクルマが好きだからね。
 だからパッと辞められたのかもしれない。
 ル・マンだって留学先のアメリカから合流したくらいで
 気持ち的には完全に区切りが付いていたから 
 あんまり印象に残っていないんだよね。

 こうして振り返ると僕の現役生活って74〜75年のル・マンを入れても
 たかだか10年くらいでしょ。でも後になって国さんに、
 “晴邦君ってそんなに少ししかやってなかったんだーっ、
 それにしては存在感あるなー”って言われたのは嬉しかった(笑)」

(つづく)

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