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2011.02.08 Tuesday

ESSO RACING TEAM STORY 第13回

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



【ESSO RACING TEAM ついに初陣へ】

1972年5月2日、富士スピードウェイを舞台に
日本最大級のレースイベント、日本グランプリが開催されます。

とはいっても、1960年代に興隆を極めた長距離スポーツカーレースから
排ガス規制などを理由に相次いでメーカーが撤退したことで
JAFはフォーミュラカーを重視する路線へと転向。

日本GPも1971年からフォーミュラカーに
タイトルを冠したレースへと変更されるのです。
しかし、肝心のF2/F2000レースに出場できるクルマは少なく、
この1972年もジョン・サーティースや、オーストラリア・タスマン・レースの
遠征組を合わせても、わずか14台のエントリー(出走は13台)という有様。

もっぱら観客の興味は、トヨタと日産が激突する前座のツーリングカーレースや
40台ものエントリーを集めたミニ・フォーミュラ、FJ360に集中します。


ESSO RACING TEAM エッソ レーシング ティーム
資料提供:尾崎郁夫

このFJ360は、1970年にJAFが制定したフォーミュラJ規定に則って
開催される、軽自動車のエンジンを使ったフォーミュラ・ジュニア・レース。

72年の日本GPではそのJAF規定に従って、
盛んだった500ccのFL500ではなく
360ccのFJ360に統一して争われることになっていました。

そこでこのレースがデビューとなるESSO RACING TEAMも
2台のアウグスタMk3"ESSO EXTRA"に360ccのエンジンを
搭載して出場することになるのですが、当初彼らは2台とも
エンジンをホンダN360用4ストローク空冷ツインユニットにする予定でいました。
(実際3月の東京レーシングカーショーではホンダ仕様で展示)

しかし、レース仕様で50馬力ほどを発揮していたN360のエンジンに対し
勢力を拡大しつつあった、スズキ・フロンテの2ストローク水冷3気筒ユニットは
55〜60馬力を発揮していたのです。

そこでESSO RACING TEAMでは、1台をスズキ・エンジン仕様に変更。
以前紹介した当時のプレスリリースでは、スズキ仕様を米山二郎さん、
ホンダ仕様を戸張薫さんにドライブさせることにしていました。

ところが実際にエントリーする段になって、スズキ仕様のドライバーとして
登録されたのは、このクルマの設計者であり、チーフエンジニアでもある
解良喜久雄さんだったのです。

ESSO RACING TEAM エッソ レーシング ティーム
写真提供:解良喜久雄

その時の経緯は定かではありませんが、マネージャーだった尾崎郁夫さんは
「僕らの間ではオケラ(=解良)は、リザーブドライバーという認識でした。
 彼は運転が上手かったし速かったですからね。レギュラーよりも速いなんて
 ことはしょっちゅうでしたよ 」
と証言します。

解良さんもその時の詳細はよく覚えていないとのことでしたが
いずれにしろ、鮒子田、米山、高原といったRQでのレース経験のある
エース級ドライバーが、すべてメインレースに出場している以上
実績と経験から、解良さんを乗せようと、山梨代表が判断したことは
想像に難くありません。

ESSO RACING TEAM エッソ レーシング ティーム
写真提供:戸張薫

一方、ホンダ仕様のドライバーはリリース通り戸張薫さん。

これは上の解良さんの写真の隣の位置から撮ったもので、山梨さんの愛車
フェアレディZや、当時のFJとしては先進的なセミモノコック・スタイルのシャシーを
もつアウグスタMk3の様子などがしっかり写っています(右から2番目が戸張さん)。

諸事情からレースを暫く離れていたところ、山梨さんからの誘いで
大舞台で復帰できることになった時のことを戸張さんは

「セカンドドライバーという扱いだったと思いますが、普段のレースとは違い
 大観衆の前でのレースでしたからね。もう乗せてもらえるだけで嬉しい
 という感じでした」

と振り返ります。

また、この時のESSO RACING TEAMにはクルマやドライバー以外にも
それまでにない“仕掛け”があったと尾崎さんは言います。

「以前お話したように、まず報道媒体に対してパブリシティを出したこと。
 エッソが、何時何処で何をやるよ、というリリースをちゃんと出したんです。
 第二に、フルカラーのクルマを2台走らせるだけでなく、ティーム全員に
 ユニフォームを作って着せました。さらにステッカーなんかのグッズも作って
 会場で配布したんです。
 もちろん、そうして注目を浴びるからには
 いつ誰に見られても、写真を撮られてもいいように、ピットの床はゴミひとつない
 状態に奇麗に掃除して、夜遅く作業が終わっても、工具をピシーっと
 元の状態に戻すようにするなど、見た目を奇麗にすることを徹底しました。
 そうすれば自然と効率もあがってミスも少なくなりますから」

ESSO RACING TEAM エッソ レーシング ティーム
当時何万枚も配ったというステッカー 資料提供:尾崎郁夫

今でこそレーシングティームがステッカーやグッズをサーキットで
配るというプロモーション活動は珍しいものではありませんが
当時の日本のレース界で、ここまで徹底したプロモーションを行っていた
ティームは他になかったと尾崎さんは振り返ります。
しかも、今でいうF3以下のカテゴリーで、今から40年も前に
ティームウェアまで統一するCI活動を行っていたという事実は驚きに値します。

「お金をもらってレースをするだけなら、ただのタニマチですよ
 僕はそれ以上の関係をESSOと築こうと思っていました。
 だから相手に何をしたら良いのか? どうしたら効果があるのか? を
 常に考えていました。もちろんお手本も前例もないから大変でしたが
 自分たちでゼロから作り上げていくやり甲斐もありましたね」

そう尾崎さんが振り返るように、生まれたてのローカル草レースだった
FJの中で、ちゃんとオーガナイズされたESSO RACING TEAMの存在は
ある意味で異質のものだったのかもしれません。

ESSO RACING TEAM エッソ レーシング ティーム
写真提供:戸張薫

確かにこうして写真を見ると、スポンサーカラーに塗られた
マシーンのボディだけでなく、ウェア、ヘルメットも一番露出の多い部分に
しっかりとESSOのロゴが貼られているのが分かります。

5月2日に行われた予選で解良さんのゼッケン23、ESSO EXTRAスズキは6位。
戸張さんのESSO EXTRAホンダは20位につけます。

こう見ると両者の間に差があるように感じられるかもしれませんが、
戸張さんの順位は、ホンダ・エンジン勢の中では成田修さんの
ワークス・べルコに次ぐ2番手という立派なものでした。

当時の様子を戸張さんはこう話します。

「ミニカーレースをしている頃はそうでもなかったんですが、
 この当時のホンダとスズキのエンジンの差は決定的でした。
 もうストレートでバーッと先にいかれちゃいますからね」

ESSO RACING TEAM エッソ レーシング ティーム
写真提供:戸張薫

そして5月3日午後5時20分、メインレースも終わった
1972年日本グランプリの最終プログラムとしてFJ360の決勝レースが
行われることになりました。

パドックでは予選を通過した34台のマシーンが一斉に唸りを上げ
スズキ2ストローク・エンジンからの甘いオイルの匂いと白煙が辺りを包み込みます。
(つづく)

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※過去の記事

ESSO RACING TEAM STORY プロローグ1
ESSO RACING TEAM STORY プロローグ2
ESSO RACING TEAM STORY 第1回
ESSO RACING TEAM STORY 第2回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回補足
ESSO RACING TEAM STORY 第4回
ESSO RACING TEAM STORY 第5回
ESSO RACING TEAM STORY 第6回
ESSO RACING TEAM STORY 第7回
ESSO RACING TEAM STORY 第8回
ESSO RACING TEAM STORY 第9回
ESSO RACING TEAM STORY 第10回
ESSO RACING TEAM STORY 第11回
ESSO RACING TEAM STORY 第12回


※ブログ右端のカテゴリー欄に
ESSO RACING TEAM STORY を追加しています。
過去の記事はそこからもご覧頂けます。













コメント
日本のレース100選じゃ分からない物語ですね。面白いです。
これは何かの本になったりするのですか?
  • アクセル
  • 2011.02.08 Tuesday 15:55
藤原さま。始めまして。いつも楽しく拝見させて頂いております。
昔、私の住んでいた町に小さなサーキットがありました。短かったけれども、そこで経験した数々の思い出、とても優しくしてくださった、TMSCのドライバーの方々のこととか・・・。
ページを拝見させて頂きながら、その、セピア色の写真を拝見させて頂いて、まさにその頃の思い出が甦りまっす。
これからも楽しみに拝見させていただきます。
長くなりすみませんでした。
  • ua5
  • 2011.02.08 Tuesday 19:02
アクセルさん
こんばんは。とりあえず、今は何の予定も無い
公開メモ帳だと思って読んでください。
ええ。
  • 藤原
  • 2011.02.08 Tuesday 22:51
ua5さん
こんばんは。初めまして。
ヘタをすると、この先ガソリン車ですら無かったことに
しかねない国ですから
せめて皆さんのセピア色の思いでだけでも残せたらと思っております。

こんな話、日本中にゴロゴロしていたはずですから。
  • 藤原
  • 2011.02.08 Tuesday 22:52
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