<< 今度は1970年全日本鈴鹿12時間レース! | main | ロータス102ランボルギーニが復活! >>
2011.03.29 Tuesday

ESSO RACING TEAM STORY 第22回

 
Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



―― ESSO RACING TEAM STORYは、1970年台の初頭に
東京・青山の片隅で、真剣にF1を夢見て集まった若者たちの情熱の物語です。



【つかみ損ねたデビューウィン

新しくスタートすることになったFJ1300へステップアップすることとなった
ESSO RACING TEAMの1973年シーズンは、5月3日に開催された
JAF グランプリから始まりました。

マシーンは、トヨタから門外不出のワークスエンジン
トヨタ・カローラ用3K-B OHVユニットを搭載したノバ01。
白と赤のイメージカラーで塗られたマシーンは“ESSO EXTRA"と呼ばれ
開幕戦のエントリーリストには、鮒子田寛、米山二郎の2名が登録されていました。

しかし、当時の出走記録には鮒子田さんの“ESSO EXTRA"しか載っていません。
その裏事情を教えてくれたのは、かつてコッパ・ディ小海や
コッパ・デッレ・アウトストリケなどの仕掛人としても知られた
京都在住のエンスージァスト山中信博さんでした。

「中学1年の時、同級生の家に遊びに行ったら、そこに矢吹圭造のエスがあった。
 それを見たら、同級生はそっちのけで、そのクルマを改造している
 彼の兄貴と遊ぶようになってね……。その兄貴が林みのるだったんです」

という山中さんは、以来レースの世界にのめり込み
マクランサ・パニックの製作などを手伝ったあと、解良さんらとともに
創立間もないノバ・エンジニアリングのメカとして現場にいたという経歴の持ち主。

当時の山中(愛称:サンチュウ)さんのことを、解良さんはこう振り返ります。

撮影:前田恵介

「僕の記憶では彼は数ヶ月間、ノバ設立時にいましたよ。
 ただ正式な社員かどうかは山梨さんに聞かないと分かりません。
 FJ1300の時には金子君(後のマキシムカーズ)とサンチュウがコンビを組んで
 晴邦さんの車、風戸君のマーチ(チーフは猪瀬さんで風戸レーシングのスタッフ)
 をサポートした記憶があります」

その山中さんに、ノバ時代の記憶を伺ったところ、こんな証言が寄せられたのです。

「ノバ01といえば、ステアリングシャフトをRSC製のモノを使うことになって
 木村昌夫さん(現 無限)から買ったんですよ。ところがそれが不良品で、
 富士の最初のテストの時、いきなりステアできなくなってクラッシュしてね。
 木村さんが慌てて飛んで来て、責任を感じて自らモノコックのリベットを剥がして
 直そうとしたりして(笑)。それをオケラと一緒になだめて止めたのを覚えてますよ」

そのテストの時にステアリングを握り、クラッシュの憂き目にあったのが、
鮒子田寛さんでした。

撮影:前田恵介

「その通り!!! この時のレースは富士の左回りを使用していて、
 クラッシュした場所はヘアピンの進入。ハイスピードからのハードブレーキングの後、
 ハンドルが切れず、車が回らず、まっすぐにガードレールに突っ込んだ。
 レース前の練習で、米山車も全く同じ場所で突っ込みクラッシュ。
 2台が同じ場所でクラッシュしたので、おかしいと思い
 車の問題だと主張してもオケラは我々の意見を無視した!
 それでレースでは車の修理が間に合わす、1台欠場して私だけが出たんです。
 当時、部品に問題があったという話は知らされず、先日の京都取材の折、
 尾張屋でそばを食べた時に、オケラから部品の問題だったと聞かされた(笑)」

ということで、解良さんに事の真相を伺ってみました。

「解良からお答えします。皆様当時の事ですでに時間も経過し、
 誰も怪我をしなくて良かったので、この場を借りて白状します。
 ステアリング・ギアボックスは、当時のRSC製で
    木村さんが1台目のクラッシュの直後、日仏自動車
 (ノバのファクトリーが完成するまでは日仏自動車内で作業)を訪ねてきましたが
 私としては確信は持てませんでした。しかし2台目で確信が持てました。
 原因はラックの回り留めが機能していなくて、ギアが引っかかった為に
 ステアリング操作不能になったのです。後のレースは対策をしました。
 怖かったでしょうね?」

これがデビュー戦ながら、1カー・エントリーとなってしまった
JAFグランプリの真相だったのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さて、5月3日に決勝が行われたJAF グランプリ。
初開催となるFJ1300レースには、22台ものエントリーが集まりました。
その中でポールポジションを獲得したのは、谷口芳浩の竹茗堂ベルコ。
たった1台の出走となったESSO EXTRAの鮒子田車は
11番グリッドからのスタートとなります。

しかし迎えた決勝レース。
11番グリッドからスタートした鮒子田ESSO EXTRAは
序盤から林将一のハヤシ708、阪口顕のUCC(ハヤシ)708、
中野雅晴のヒーローズ KS-03、谷口芳浩、松本鋼一のべルコ98Aと
トップグループを形成。
その後レースは、林将一と、鮒子田寛の一騎打ちの形相を見せるようになります。

(写真提供:Racing Retro 鮒子田車の背後に迫るのは、谷口べルコ)

「当時のトヨタエンジン(綱島チューン)は、高回転域はそれなりに良かったけど、
 中低回転域のトルクは全くない特性でした。
 だから、左回りの最初のヘアピン、最終のヘアピンの立ち上がりでは、
 2速(1速を使うこともあった)でも、息つきをしながら
 ようやく加速するという感じでした。
 レース中、林将一のハヤシとトップ争いをしていたのだけど、
 1コーナー、ヘアピンのブレーキング、300R、100R等は
    こちらがダントツに速いのだけど、ヘアピンの立ち上がり等では
    息つきで差を詰められる(或いは、差を広げられる)状況だった。

 そのレース中、シフトロッドの先端でレバーを締め上げているナットが緩み、
 シフトが3速4速しかできなくなってしまった。
 と云う事は、2つあるヘアピンを3速で回ることになる。
 低速トルクがなくて、それでなくても苦しいヘアピンを3速で回るのだから大変、
 パツ、パツ、ボソボソで加速せず立ち上がりで簡単に林将一に抜かれてしまう。
 それを、1コーナーから300R、へアピンのブレーキングで抜き返す。
 この争いがレース最後まで続いたのだが、
 結局、直線では抜き返せずじまいで3位フィニッシュ。

 終わってから、オケラがなんて言ったと思う! 
 走りながら手で締めれば良かったのにだって!! 
 そんなことは走りながら試したけど、閉まるものではない! 
 と云う事で、またまた、オケラの武勇伝でした」

と、鮒子田さんが述懐するように、林将一のハヤシ708と
死闘を繰り広げたESSO EXTRAは、ファイナルラップで力つき
林、阪口のハヤシ勢にかわされ、3位でフィニッシュ。
デビューウィンを寸前で逃してしまったのです。
その時のことは、マネージャーだった尾崎さんも良く覚えていると言います。



「あ、これは勝った! と確信していたら、最後の最後で
 フシヤンのクルマが加速しないんです。これは悔しかったですね。
 3速、4速しか使えずタイトコーナーでは半クラッチを駆使して走っていたので
 ゴールした後のマシーンから異様な熱気が立ちこめ、クラッチフェーシングの
 焼ける独特な匂いがしていたのを覚えていますよ。
 3位には入ったけれど、僕らは勝ちに来ていたわけですから
 誰もが無言で、そそくさと片付けをはじめてね。
 もうピットの中は悔しさで溢れていましたね。
 フシヤンなんか、近づくのも憚られるほどの殺気が漂っていました」

もちろん、その悔しさは解良さんも同じでした。

「緩んだ要因はシフトシャフトのねじ山が荒いことでした。
 それで緩みやすかったのです。対策として後に
 シャフト部にロールピンを打ち込みました。
 勝ちを逃した悔しさで、ついフシヤンに悪たれを突いた記憶は在ります。
(反省はしていませんが)」
(つづく)

コメント
そういえば厚木のO久保さんは日仏にいらしたそうです。そのせいか、ゴルヒーリーでクライアントだったのにヤマナカ(呼び捨て)呼ばわりでしたねw
portagoさん
そうそう(笑)。ドンO久保氏は、その当時の過酷なノバの状況をよくご存知でした。
ちなみに山中さんからは、解良さんがメカニックの仕事だけではなく、全員の夕飯まで作っていたという話を聞いた事があります。
  • 藤原
  • 2011.03.29 Tuesday 23:49
コメントする








 
この記事のトラックバックURL
トラックバック
Calendar
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< October 2020 >>
Selected Entries
Categories
Archives
Recent Comment
Recent Trackback
Links
Profile
Search this site.
Others
Mobile
qrcode
Powered by
30days Album
無料ブログ作成サービス JUGEM