2011.01.31 Monday

ESSO RACING TEAM STORY 第9回

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記




念ずれば叶う、という言葉がありますが
昨日、東京 お台場で開催されたJCCA ニューイヤーミーティング(NYM)の会場で
とんでもないモノを発見してしました。

朝、会場に到着するやいなや、このブログでもお馴染み
ホンダ ツイン カム クラブさんのブースへ。(ここの模様はまた明日)
そこで皆さんにご挨拶をしていると、これまたいつも
マニアックなコメントを書き込んでくださるlotus49fordさんの姿が。

そこでlotus49fordさんから「今年の会場で一番スゴいものを見つけました」
というタレコミ情報をいただき、一緒にN.Z Racing Sports Clubさんの
ブースに出かけてみると、なにやら見慣れた物体が……。

ESSO RACING TEAM アウグスタ Mk3

そう! なんとアウグスタMk3"ESSO EXTRA"のノーズコーンが
ポツンと置かれていたのです。

例年、ホンダ関係やFL関係の皆さんが集うこのミーティングで
少しでもアウグスタの手がかりがつかめれば……
とは思っていましたが、まさかホンモノに出会えるとは!
あまりのタイミングの良さに卒倒しかけました。

しかもノーズだけでなくセンターカウルもお持ちだということで
無理をいって引っ張りだしていただき撮影することに。

ESSO RACING TEAM アウグスタ Mk3

果たして会場で何人の方がこれに気づかれたかはわかりませんが、
由良拓也デザインのアウグスタMk3のカウルそのものに間違いありません!
(下の写真をご覧ください!)

ESSO RACING TEAM アウグスタ Mk3
写真提供:尾崎郁夫

N.Z.Racing Sports Clubさんにお伺いしたところ、
アウグスタMk3を手に入れられたのは10年近く前。

このカウルは、走行することを考え
オリジナルをベースに起こしたリプレイス品とのことですが、
他の色に塗られていたオリジナルカウルの塗装を剥ぐと、
ESSOのロゴの跡が残っていたそうです。

シャシーの方は現在レストアの最中ということで
残念ながらバラバラの状態。
いずれ、元のホンダ・エンジン仕様に戻される予定だそう。
(カウル再生の上で、スクリーン部がないのが問題だとか)

ちなみに当時アウグスタMk3は、ESSOカラーの2台の他に
真っ白なエンジンレスのシャシーも作られていた
(東京レーシングカーショーで展示されていたそう)らしいのですが
このクルマはオリジナルカウルの経緯からも元ESSOカーではないか?  とのこと。

3台製作された! という話は知りませんでしたので、
この辺りも追って調査して行こうと思います。

では、何の役に立つかは分かりませんが
アウグスタMk3のカウルのディテールカットをどうぞ。

ESSO RACING TEAM アウグスタ Mk3
カウルリア側から
エアインテーク
ESSO RACING TEAM アウグスタ Mk3
ESSO EXTRAのロゴ
ESSO RACING TEAM アウグスタ Mk3
センターカウル内側
ESSO RACING TEAM アウグスタ Mk3
ノーズコーン内部

よく見れば見るほど、当時のFLマシーンの中では
凝った美しいデザインとしていると思います。

考えてみれば、市井の個人やショップが小排気量の大衆車を
ベースにオリジナルのレーシングカーを作っていくというストーリーは
スタンゲリーニやジャウル、モレッティなどに代表されるイタリアの虫、
もしくは英国のバックヤードビルダーあがりのレーシングカーと
なんら変わりないストーリーなわけですから、
日本に住む我々が率先して残していくべき財産
(こればかりは他の国のヒストリアンが調べるとは
到底思えませんので)だと改めて実感した次第です。

ちなみに、もう1台のアウグスタMk3のほかに、
アウグスタMk2も現存しているとのことで、
こちらの情報も随時追いかけていきます。

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さて、N.Z Racing Sports Clubさんにお話をお伺いしたところ
以前にこのアウグスタMk3を所有されたいたのは、ヒストリックFL界では
お馴染みの、千葉県市川市にある鈴木モータースさんということが判明。

ファルコン 77A 80A

早速、今回もドドーンとファルコン77A(奥)と80A(手前)を展示されていた
鈴木モータースさんのブースを訪れ(そこがNYMの良いところです)
鈴木社長にアウグスタを手に入れた顛末をお伺いしました。

鈴木社長がアウグスタを手に入れたのは今から20年近く前のこと。
某所でお店の看板として野ざらしで置かれていたのを発見し、
救い出したのだそうです。

長年雨ざらしにされていたので、相当痛みが激しかったといいますが、
それをレストア。今から15年ほど前、
まだパシフィコ横浜で行われたいた時の
ニューイヤーミーティングで展示。
その後しばらくして、N.Z Racing Sports Clubさんにお譲りしたのだとか。

ということで新たな展開を迎えつつある
ESSO RACING TEAM STORYは、また次回に続きます。
(つづく)


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※過去の記事

ESSO RACING TEAM STORY 第1回
ESSO RACING TEAM STORY 第2回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回補足
ESSO RACING TEAM STORY 第4回
ESSO RACING TEAM STORY 第5回
ESSO RACING TEAM STORY 第6回
ESSO RACING TEAM STORY 第7回
ESSO RACING TEAM STORY 第8回


※今日からこのブログ右端のカテゴリー欄に
ESSO RACING TEAM STORY を追加しました。
過去の記事はそこからもご覧頂けます。










2011.01.30 Sunday

華麗なるガレージライフへの第一歩

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



最近、ESSO〜が盛り上がっている反面
なかなかゆる〜いネタが書きづらくなっている
モータープレスでありますが
昨日は、重〜い腰をようやくあげて、引っ越し以来手つかず
(というか物置小屋になっていた)ガレージの荷物をすべて引っ張りだし
一度奇麗に掃除してみました。


実用的なサイズを考えると、コーティナ・ロータスを入れると精一杯。
ワークベンチやラック等を設置したいなら、ミニ+αくらいの
クルマしか入らないのではないだろうか?

うーん。

ま、ボチボチやりますかね。

さて、ところで今日は東京お台場で
JCCAニューイヤーミーティングが開催されます!
僕も今から行ってこようかな?
その報告は明日のモータープレスにて、ニンニン。



2011.01.29 Saturday

1972年日本GPといえば!

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



こんにちは。
最近、色んな方から応援のメッセージを
いただいて、感謝することしきりのモータープレス。
恐縮です。

さて、ESSO RACING TEAM STORYを調べていてふと気づきました。

エッソ・エクストラのデビュー戦となった72年の日本GPの
最大の話題は、ジョン・サーティースが持ち込んだ
サーティースTS10 BDA だったのですが、
ワタクシ昨年のグッドウッドで実車を見ていました。

SURTEES TS10 日本GP GOODWOOD

このTS10は、コンストラクターであるサーティースが
初めて製作したF2マシーンで、基本的にはF1マシーンのTS9の縮小版といった内容。

72年の日本GPで御大サーティースのドライブにより
圧勝を飾った他、ヨーロッパF2選手権でも
マイク・ヘイルウッド! が3勝を挙げて見事総合王座に輝いています。

ただ、シャシーのデキが良かったというより、72年から施行された
「2リッター&1000台以上生産した市販車ベースのエンジンを使用」という
新規定のレギュレーションにどのティームも対応できない
(その中にはGRDの生沢選手も含まれていた訳ですが)という状況の中、
唯一安定した信頼性を誇ったブライアン・ハートのBDAを確保していた……
というのが、最大の勝因であったという話もありますが……。

SURTEES TS10 日本GP GOODWOOD

そんなTS10の日本GP優勝車そのものが、御大の元でレストアされ、
昨年のグッドウッド・リバイバルの中で行われた
サーティース・トリビュート・パレードで走りました。

かつて日本の名レース100選(三栄書房 刊)で
御大自らがインタビューに応えていましたが
本来なら、この晴れの舞台で一人息子のヘンリー・サーティース
(2009年のFIA F2のレース中に不慮の事故で死去)に
このクルマをドライブさせるつもりだったんでしょう。

そう思うと、栄光のマシーンなのにちょっと悲しい気持ちになります。


JOHN SURTEES ジョン サーティース GOODWOOD

ちなみにサーティースって言えば、映画「グラン・プリ」
イヴ・モンタン演じるフェラーリ・ドライバー、ジャン・ピエール・サルディが
サーティース・カラーのヘルメットを被って出てきますよね。

でもなぜか映画の後半になると、
変なカラーリングのヘルメットを被るようになるんですよね。

あれ? と思ってたら、ちょうど映画の撮影が行われていた
66年シーズンの途中で、サーティースはティームマネージャーの
ドラゴーニと喧嘩してティームを離脱したんでしたね。まぁ間の悪いこと。

あ、さらに余談ですが
1974年7月に開催された全日本富士1000kmレースの中で
開催されたFL2000レースで、サーティースTS15(F2)に乗って
出場した解良喜久雄さんが、なんと3位入賞しているって知ってました?

以上、レース・トリビアでした。





2011.01.28 Friday

ESSO RACING TEAM STORY 第8回

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



ESSO RACING TEAMが設立される1年前の1971年。

1月31日に富士スピードウェイで開催された
この年のFL500シリーズの開幕戦というべき、
オートスポーツトロフィー・レースに
RQワークスからアウグスタMk2で出場していたのが、
元TEAM TOYOTAの鮒子田寛さんでした。

ESSO RACING TEAM 鮒子田 寛

当時の鮒子田さんといえばTEAM TOYOTA在籍中の1970年に
単身渡米し、インディ500出場を目標として
ズース・ディベロップメントからF-Aコンチネンタル選手権
(北米のF5000シリーズ)にイーグル・プリムスで参戦。
さらに、CAN-AM挑戦など北米を拠点にレース活動をしていた頃。

1971年からはトランザム・レースにローレル・レーシングの
シボレー・カマロで挑戦することが決まっていました。
では、なぜそんな時期に日本でジュニア・フォーミュラの
レースに参加することになったのでしょうか?
鮒子田寛さんは、RQとの関わりをこう振り返ります。

「当時はまだオケラとも尾崎とも面識はなかったから、きっと山梨さんが
  声をかけてきたんだと思う。71年は1月と4月にレースに出ているけど、
  その年はアメリカでのレース活動がメインであって、日本滞在時や、
  帰国時にタイミングが合えばスポット的に出たのだと思います 」

おそらく、FLを盛り上げるためにトップドライバーに乗ってもらいたい
という想いを持っていた故 山梨信輔さんはスケジュールが合う限り
RQのレギュラーとしてFLのレースに出て欲しいと考えていたのでしょう。

その期待に応え、1月のオートスポーツトロフィー・レースに、
高原敬武さんとともにRQワークスで出場した鮒子田さんは
高田忠政さんのべルコ96Aとトップ争いを繰り広げた末に2位入賞。

4月に筑波で行われた第2戦ではスタートで出遅れたものの
堀雄登吉さんのアローS1に次いで連続2位入賞を果たしています。

ESSO RACING TEAM 鮒子田 寛
オートスポーツトロフィー第1戦の模様。ゼッケン2がアウグスタMk2鮒子田車。
 (AUTO SPORT YEAR '72 三栄書房 刊より)

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しかし、7月に開催されたトランザム・シリーズ第4戦
ロードアメリカの決勝で、カマロのブレーキトラブルによりクラッシュ。
車内に2時間以上も閉じ込められ、足首や肋骨を折る重傷を負ってしまうのです。
(この辺りの活動歴は牧野弘文氏のくるま村少年たちのHPに詳しく載っています)

つまり、71年シーズンの後半アウグスタに
鮒子田さんが乗らなかったのは、この怪我の影響があったと考えられます。

「怪我をして日本に戻ってきたのは10月頃。
 当然、71年はレースは出来ない状態であったので、参加していません。
 仮に、怪我をしていなくても、元々アメリカでのレースがメインだったので、
 限られたレースしか出られなったでしょう」


そして迎えた’72年シーズン。

5月の日本GPよりESSO RACING TEAMは
2台のESSO EXTRA(アウグスタMk3)を擁して本格的に活動を開始するのですが、
この日本GPに鮒子田さんは、フシダ・レーサーズから
“フライング・オンワード・コルト"ブラバムBT36 三菱R39Bで出場(決勝3位)。

ESSO RACING TEAM 鮒子田 寛
日本の名レース100選 No.045 '72年日本GP(三栄書房 刊)より

さらに、3月19日の富士GC開幕戦 富士300キロ・スピードレースより
元ブライアン・レッドマン/マイク・ヘイルウッドのワークス・シェブロンB21Pで
富士GCシリーズへのフル出場を開始するなど
日本での活動を本格的に再開したこともあって、
鮒子田さんは、8月の全日本鈴鹿300キロ・ツーリングカーレースの前座で
ESSO EXTRAをドライブするまで、ティームには参画していないのです。

ESSO RACING TEAM 鮒子田 寛
1972年東京レーシングカーショーにて。奥に見える黄色いマシーンが
鮒子田さんのexワークス・シェブロンB21P。写真提供:尾崎郁夫

その辺りの経緯を鮒子田さんはこう振り返ります。

「72年は8月以降に4戦出ているが、その経緯も覚えてない。
  72年はGCシリーズ+スポーツカーレースが主たる活動であって、
  FLに乗ることは予定に入れていなかったのだと思うけど,
  何らかの理由……例えばスポンサーを考慮した露出アップとかで
  ドライバーを代えたと考えますね

僕の記憶では、72年の初めに筑波のレースに行った記憶があり、
  その時もFLに乗った気がするのだけれど……。
  JAFの記録にはないので、8月の勘違いかも知れない。
  杖を突いていたので8月ではないと思うのだけれど?」

とはいえ、ESSO RACING TEAMから'72年のFL500シリーズの後半3戦に
エントリーした鮒子田さんは、10月のNETカップレース決勝で
4位入賞という結果を残しています。

そんな鮒子田さんとESSO RACING TEAMの結びつきがより
強くなっていくのは、翌73年シーズンになってから。
そのお話は、また後日お届けすることにしましょう。

(ESSO RACING TEAM STORYは来週につづく)

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※過去の記事

ESSO RACING TEAM STORY 第1回
ESSO RACING TEAM STORY 第2回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回補足
ESSO RACING TEAM STORY 第4回
ESSO RACING TEAM STORY 第5回
ESSO RACING TEAM STORY 第6回
ESSO RACING TEAM STORY 第7回


2011.01.27 Thursday

ESSO RACING TEAM STORY 第7回

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記


エントリー名から、ティームウェアに至るまで
ESSO一色で統一されたESSO RACING TEAMの登場は
既存の日本のレースシーンにおいてはショッキングな出来事でした。

なぜなら、1972年のFL500でスポンサー名を
車名としていたのがエッソ・エクストラくらいだったのに対し
1973年になると、“仮面ライダーフロンテ”、“ペプシSP1”、“カナダドライ97A"など
スポンサー名を前面に打ち出したエントリー名が急増するからです。

さて、そんなESSO旋風の吹き荒れる1972年のFL500シリーズは
1月16日に決勝を迎える全日本鈴鹿新春300キロレースの
サポートレースから始まりました。

しかし開幕戦に姿を見せたのはたったの8台。
その中に、ESSO RACING TEAMの姿はありません。
その開幕を制したのは高田忠政のワークス・べルコ96Aでした。

その後、
2月13日のバレンタイン・トロフィ・ダッシュ(筑波)
3月5日の’72全日本鈴鹿自動車レース大会No.1(鈴鹿)
4月2日の全日本鈴鹿500キロ自動車レース(鈴鹿)
4月23日のチームエイト8周年記念レース(筑波)
と、FL500のシリーズは順次開催されていくのですが
どこにも、ESSO RACING TEAMの姿はありません。

RQ勢としては唯一2月のバレンタイン・トロフィに
アウグスタMk2で戸張薫さんが出場したのみです。
  

実はESSO EXTRAのシェイクダウンが行われたのは、
年明けになってからで、開幕の数戦には間に合う状況ではなかったようです。
ESSO RACING TEAM アウグスタ Mk3
写真提供:尾崎郁夫

これはテスト時を撮影した貴重なショット(撮影は尾崎さん自身)。
場所は筑波の第1ヘアピンの立ち上がり。
ドライブするのは、解良さんによるとべルコ・ワークスの高田忠政さん。
当時高田さんのエンジンチューンを担当した関係から
「乗せろと言われて乗せました(解良:談)」とのこと。

ちなみにシェイクダウン&テストはほとんど解良さんが担当。
(一部高原さんが乗った可能性もあるとのこと)

結局、ESSO RACING TEAMは、そのデビュー戦として
1972年5月3日に開催される日本GP(そう、あのジョン・サーティースが
サーティースTS10 BDAで日本に殴り込みをかけたレース)
に焦点を合わせることとなります。

さて、そこで問題になるのはドライバー選び。

そもそもレーシング・クォータリーでは前年の1971年
ワークス格のアウグスタMk2に米山二郎、高原敬武、鮒子田寛、風戸裕といった
ビッグネームを起用していました。

なぜこうしたジュニア・フォーミュラのレースに、
トップカテゴリーの選手が乗ることになったのか? 尾崎さんはその理由を
「始まったばかりのFL360/500を盛り上げたいという考えから、
 山梨信輔さんが声をかけたんだと思います」と語ります。

確かに鮒子田さんも米山さんも風戸さんも当時は
海外レースに挑戦中の身。
そんなレーサーたちに声を掛けて乗ってもらったあたりに
山梨さんのFL500に賭ける想いが伝わってくる気がします。

ということで、次回はその当時のRQワークスレーサーのひとり
鮒子田寛さんにご登場いただきます。
(つづく)

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※過去の記事

ESSO RACING TEAM STORY 第1回
ESSO RACING TEAM STORY 第2回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回補足
ESSO RACING TEAM STORY 第4回
ESSO RACING TEAM STORY 第5回
ESSO RACING TEAM STORY 第6回




2011.01.26 Wednesday

ESSO RACING TEAM STORY 第6回

 


Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



久々の再開となるESSO RACING TEAM STORYです。


エッソ石油がメインスポンサーとなったことで
いよいよ1972年シーズンのデビューに向けティーム作りがスタート。
ティーム名もESSO RACING TEAMと命名されることになりました。
併せて、新たに製作されたアウグスタMk3も商品名にあやかって
“ESSO EXTRA”という名前でエントリーすることになります。


もちろん、すでにタキ・レーシング・ティームをはじめとする
プライベートティームや、車名に○○スペシャルと、
企業スポンサー名を付けたものは存在していましたが
今で言うコーポレート・アイデンティティ(CI)や
ヴィジュアル・アイデンティティ(VI)を徹底した
一社独占スポンサーのレーシング・ティームは
日本で初めてだったと尾崎さんは述懐します。

「1社独占スポンサーで、企業カラーに塗装して、
 2カーエントリーというのは、日本初のことでした。
 エントリー車名も“ESSO EXTRA”にする徹底ぶりでしたしね。
 でもJAFやレース主催者達が、“エントリー名はマシーンの製造者名で
 なければ受け付けない。商品名を付けるなんてもっての外だ!”
 なんて馬鹿なことを言い出したんです。
 当時は貼るステッカーの数が決められていたりしたくらいですから。
まったく理解は無かったし、前例のないことは認めない雰囲気がありました。
 そんな事もあるだろうと、我々はメディアを味方に付けたんです。
 発表会に招いて、ちゃんとプレスリリースを作って配って……。
 そうしたら彼らはちゃんとレース前の出走予定記事に一斉に
 “ESSO EXTRA”と書いてくれたんです。
 それからティーム名にスポンサー名を付けることが当たり前のようになったんですね」

ESSO RACING TEAM アウグスタ Mk3 ESSO EXTRA
当時作られたESSO RACING TEAMのロゴマーク。
販促用のステッカーも「何枚撒いたか分からないほど作った」そうだ。
資料提供:尾崎郁夫

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実は、ESSO RACING TEAMがメディアを味方に付ける戦略を
採ることが出来たのには、もうひとつの理由があったと、尾崎さんは言います。

「当時はレースオーガナイズをする
 JAF公認クラブの活動が活発になり出した頃でしてね。
 RQCをはじめ、そんなクラブが集まって年6戦くらいのシリーズを
 開催するのですが、そのサポートをしてくれたのが三栄書房でした。
 それがAUTOSPORT TROPHY RACEなんです。
 で、僕はESSOのマネージャーであると同時に
 AUTOSPORT TROPHY RACEの事務局長でもあったんです。
 さらに東京レーシングカーショーの事務局もしてました。
 そんなわけでESSO RACING TEAMの事務局は
 設立当初から三栄書房の中にあったんです。
 MPSの渡辺さんとか、オートスポーツの井上さんとか同じ建物にいるわけですから
 今度ESSOが何やりますよ、なんて情報はパッと載せてもらえました。
 そういう意味では、上手くいく要素が全部結合してたと言えますね」

ESSO RACING TEAM アウグスタ Mk3 ESSO EXTRA

当時の尾崎さんの名刺。東京レーシングカーショーの会長が
石原慎太郎となっているのに注目! 
住所は最初は三栄書房の中で、その後(株)RQCを創り平河町へ移転。 
赤坂のTBS会館にあったESSOへ行き易いという理由もあった。
資料提供:尾崎郁夫

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こうして、1972年3月の東京レーシングカーショーで
ESSO RACING TEAMと、彼らの新しいFL500マシーン
“ESSO EXTRA"はデビューを飾るのです。
それは、これまでのFL500/360はもとより
他のカテゴリーのレースティームの概念を覆す
ティームの誕生でもありました。

(つづく)



ESSO RACING TEAM アウグスタ Mk3 ESSO EXTRA
1972年東京レーシングカーショーにて 展示された2台ともホンダ空冷エンジンを
搭載するため、フルカバーのリアカウルを装着している。
背景にはティームウェアも見える。 写真提供:尾崎郁夫

ESSO RACING TEAM アウグスタ Mk3 ESSO EXTRA
1972年大阪レーシングカーショーにて 隣は72年モンテカルロ3位入賞の240Z 。
(周りに埋もれないように、ステーの上にクルマを載せる演出にも注目)


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※過去の記事

ESSO RACING TEAM STORY 第1回
ESSO RACING TEAM STORY 第2回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回補足
ESSO RACING TEAM STORY 第4回
ESSO RACING TEAM STORY 第5回



2011.01.25 Tuesday

鮒子田さんとプリンスの秘話

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記




その中で、櫻井さんにCG用のエンジンで相談したという
一文がありました。そこで僕の勝手な憶測でR380のGR8!?  のことかもと
書きましたが、改めてそれに関する鮒子田さんからのメッセージが
寄せられましたので、ここに掲載いたします。

。。。。。。。。。。。。。。。。。

当時、AustraliaのRepcoと密接な関係のあった会社から、
私が参戦していたGCシリーズ用レースエンジンを
Repcoで製作するからと言う話があったので、
そのベースとして、プリンス・スカイラインの
直4、2リッターエンジンはどうだろうかと言うことで
桜井さんに相談したのでした。
使えそうだったのだが、その後、Repcoとの話が
期待したほど順調に進まず、なんとなく立ち消えになってしまった。

こういう記事を書くときには本人に確認をしましょう。
直6、GR8と全く関係はありません

鮒子田 寛

1973年の鮒子田さんとシェブロンB21P 
この時のエンジンはハートBDAとスミスFVD。AUTOSPORT YEAR '74(三栄書房 刊)より


スカイラインの直4ベースのレプコ・チューン・エンジンなんて
話があったとは! もしこれが実現していたら
1970年代の日産のレース活動もちょっと違う展開になっていた
可能性がありますよね。ま、歴史に“たられば”はないのですが……。

この辺りのGC時代の裏話はESSOが終わったら
改めて鮒子田さんにお伺いしたいと思います。

確かに直6じゃあ、どうしようもないですものね。
適当に書きなぐってすいません(反省)。
失礼いたしました。

ではまた明日。


2011.01.25 Tuesday

鮒子田さんから―櫻井眞一郎さんの訃報に接して

 


Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



さきほど、櫻井さんを偲ぶ尾崎さんからの備忘録をお届けしましたが
あの、鮒子田寛さんからもメッセージが届いているので
ご紹介いたします。

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尾崎殿

備忘録、興味深く読みました。
自動車に関わったおかげで、RQ、Esso……
それに、桜井さんのような人とも親交が出来たので、
尾崎君にとっては、やっぱり、自動車は最高、と言うことでしょうね。

自動車業界に”CAR GUY”が居なくなったと嘆いていましたが、
メディアにもジャーナリズムの基本を忘れた人が増殖しています。
自動車雑誌も御多分に漏れず、大本営発表丸写しや、
提灯持ち記事を書く事がジャーナリズムと考えている自称編集記者が多いようです。
もちろん、一部には純粋な記者も残っていますが、希少価値ですね。
そういう枠にはまらない人は、藤原君にように独立していくのですね。

桜井さんとは、レースを通して顔見知りでしたが、
GC時代にプリンスのエンジンを使えないか相談したことがあり、
親切に対応してもらったことを記憶しています。

ご冥福をお祈りします。

鮒子田 寛

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そんな風に櫻井さんと鮒子田さんとに接点があるとは知りませんでした。
というか、グランチャン用にプリンスのエンジン
(2リッター直6のR380用GR8ということでしょうか?)を
搭載しようという計画があったなんて! おそらく本邦初公開のエピソードでしょう。

鮒子田さん、大変貴重なお話ありがとうございました。



2011.01.25 Tuesday

櫻井眞一郎さんを偲んで……


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極個人的な自動車偏愛日記

本来なら、今日から再びESSO RACING TEAM STORYをお届けしようと
思っていたのですが、先の櫻井眞一郎さんの訃報に際して、
故人を偲ぶ言葉が寄せられたので
ご紹介させていただきます。

少々長い文章ですが、全文を載せない限りその真意が伝わらないのと
やはり時間を空けては意味がないと判断し
そのまま掲載させていただきます。
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櫻井眞一郎さんを偲んで

また一人偉大な先人が永眠された。
17日にご逝去されたというニュースを21日に知って、
驚きとともにもう一度お会いしたいという虫の知らせみたいな事が実現せず
残念な思いが巡っており、ご冥福を祈ると同時に、この備忘録を捧げたい。

櫻井さんには去年の12月に“暫くご無沙汰申し上げているので、
近々お邪魔しても良いか”という趣旨のメイルを発信し、
返事が無いのでご健康でも害されているのかなと案じていた。
やはりこの頃にはご入院されていた事が判って、
もっと早く行けば良かったと無念な思いで一杯だ。

私が初めて櫻井さんにお会いした時は、
すでにスカイライン生みの親として自動車業界はおろか、
一般社会にもその名が知れ渡っている巨星だった。
雑誌等では写真もコメントも拝見していたし「マン・マシンの昭和伝説/講談社刊」の
櫻井さんのストーリーは何度も読み返したものだった。

1997年、某途上国の自動車メーカーから日本の開発会社社に、
新車を開発するのと同時に主要部門のリーダー達に
自動車造りのA〜Zまで教育してくれないか、というプロジェクトが入って来た。
調査や交渉に3年を要し、X社の年商の10数倍以上の超ビッグプロジェクトが
スタートすることになった。 

このプロジェクトの準備段階で、
主査として設計を委託出来るのは、櫻井眞一郎さんを置いて
他に無いという事になって、交渉・契約・法務・非技術部門の
コーディネイションとマネジメントを担当した私は、
エス・アンド・エス社(すなわち櫻井さん)と交渉するため、
緊張でガチガチになりながら横浜市新吉田の高台にある同社へ向かった。

あの櫻井眞一郎さんだから、どのように接したら良いのか解らず、
また多くの有名人にありがちな"どんな偉そうな対応"をされるのか気が重かった。
すると、満面に笑みを浮かべて“櫻井眞一郎です、宜しくお願いします”と
拍子抜けする初対面だったことを想い出す。

この方は、自動車開発技術の世界でも、自動車レースの世界でも、
多分鬼のように恐れられている存在に違いないし、
事実このプロジェクトでも技術担当者とは激しいやりとりがあって、
技術的に “こうだ” と思った事はガンとして譲らなかったと聞いている。

自動車業界の関係者からも、“寝業師” だとか “タヌキ親爺” という風評も多々聞いている。
そりゃーそうだろう、一時代を創った偉大なエンジニアだし、
大日産自動車の中で地位を占め新車開発や自動車レースの莫大な予算を
分捕ってやって来たのだから、ある意味当然だと言えよう。

日産自動車の上層部のある方から、持病が無ければ日産の社長に
なっていた人だとも聞いた。非技術関係の業務で櫻井さんと接していた私は、
世間で知られている櫻井像はその一面に過ぎず、
何というか「人柄」とか「人格」のような側面はあまり公開されていないように思う。

事実仕事が進み何回もお会いするにつれて、
“お父ちゃん” と呼ばせて貰いながら櫻井さんの偉大な人格に接する事が出来て、
今大変懐かしく想い出している。

櫻井さんのところへお邪魔すると、まず何をさて置き図面を見せられ延々と解説が始まる。
私はエンジニアじゃないのに ! 
これは櫻井さんとリレーションを取るための行事の一つだとその内解って来た。

櫻井さんは自分の考え方や技術を人に説明するのが大好きで、
それも懇切丁寧に相手が納得するまで解説してくれる。
某途上国自動車メーカーの首脳陣が来日してプレゼンテーションした時もそうだった。
とことん説明してくれる。それで相手が理解すれば、
持ち前の “ニヤ〜ッ” いう笑顔を返してくれるのだ。

私が素人ながら、“この部分のこういう問題は、
どのようなソリューションがあるのですか? と聞けば、
“尾崎さんイイ〜質問するね、それが課題で今取組んでいるところだよ” 
とばかり一層説明が過熱する。技術の話をしていると、
目を輝かせ少年のような純粋な表情と態度で接してくれるのだ。
この方は、大変ピュアな方だなと感じ入った。

図面を説明している間は、御大自らお茶を注いでくれ、
数種類も置いてある煎餅の袋から
 “尾崎さん、好きなのを遠慮なく食べなよ” という具合だ。
それにしてもお父ちゃん、出柄しばかりじゃなく時々お茶っ葉を変えてよ! 
この辺は、深海潜水艇に付けるカメラを開発した時の世界的な技術者
 “島野さん” と非常に良く似ている。まだCADが無い時代に、
鉛筆を舐め舐め図面に向かった大家に共通する行動様式なのだろう。

親しくさせていただくにつれて、
“茅ヶ崎にある「えぼし」というメシ屋は魚が美味いから、
喰いに行こう。オーテックジャパンの時に良く行った店で、気に入ると思うよ” 

とばかり車を走らせた。店に付くと百種類は優に超えるメニューの中から、
“この店は、茅ヶ崎の沖合にある「烏帽子岩」から名前を取ってんだヨ。
今はどうか知れないけど、烏帽子岩の廻りで採れる魚を出してるのだ。
今の季節は○○の塩焼きが美味いと思うよ” 
と車以外の事でも懇切丁寧に説明してくれる。

こういう一面を見ると“櫻井さんは、本当に純粋でイイ人だな〜” 
と今でもつくづく思う。“どうだ口に合ったか?” と言えば、
またあの “ニヤ〜ッ” が返って来る。
実は櫻井さんに12月にメイルした時は、
久しぶりの逢瀬を「えぼし」で楽しもうと思っていた。
もう出来なくなってしまった。

さて本題は、櫻井さんとの契約交渉だ。
“俺は技術は解るが、経営や経理や契約はさっぱりなんでね〜” と言われるが、
S&Sの社長は櫻井さんなのだからお願いしますよ。
まず契約草案の説明から入るが、全然聞いてない。
業を煮やした私は、ここはこういう意味で、S&Sから見たら法律的にこうなる、
X社からみたら……、何か問題が起きたらこういう調整が必要、
という契約上合対峙する両方の話をする羽目になってしまう。

その内 “全部アンタに任せるから、一番いいようにやってよ” という始末だ。
この時思ったのは、櫻井さんは、自分の知らない事を知ったかぶりする人では無く、
不得手の事や専門外の事は、信頼できれば第三者に任す人なのだという事だ。
これ程の大物なのに非常に謙虚な側面を持っておられる。
だから大勢の人が着いて来たのではなかろうか。

何回か通ううちに、S&Sの経営相談まで始まってしまった。
X社の社員ではないとは言え、
契約先の担当者に“そんな事まで話していいの” という相談だ。
銀行とどう対応したら良いかとか、
財務状況のどこに問題がありどう解決したら良いのかという話だ。

私は逐一これこれがこう問題で、こうしたら解決可能ではないか、
プロジェクトの受託によってこういう風に展開出来る……
という説明を申し上げた事が何度もある。
“そうか〜そうやればイイのか、聞いて
怪我しなくて良かったよ、ありがとう” てな具合だ。
すると“アンタみたいな人がウチに居てくれたらいいんだけどな〜、
どうだウチへ来ないか?” と言い出す始末だ。

誠ににざっくばらんな人柄で、イイ話も悪い話もニタ〜と笑って対処する。
この人なつっこい笑顔は、永久に私の脳裏にしまわれている。

櫻井眞一郎さんは極めてビッグな人物だ
細かい事には拘らないし、人や物事を疑うということをしない。
そうじゃない人も多い世の中で、櫻井さんと接している時は
誠に爽やかな至福の時を過ごさせて頂いた。

いろいろな勉強をさせて頂いて、僅かな期間とはいえ
大きなお人柄に接する機会を頂いて、櫻井のお父ちゃんありがとう !

どうぞ安らかにお眠り下さい !!!

株式会社センサー尾崎郁夫


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
尾崎さんありがとうございました。
茅ヶ崎のえぼし、行きたくなりますね。
2011.01.24 Monday

RQ アウグスタ・シリーズの秘密




Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



昨日は自走日帰り(!)で京都へ。

アルピーヌ遣いの松田慎司さん(元童夢設計部長、キャスピタ開発を担当!)
のガレージにお邪魔して取材……だったのですが、
なんとスペシャルゲストとして鮒子田寛さん、解良喜久雄さん、
山田喜照さん(元鮒子田寛の追っかけ??、トムスで用品の開発販売を長く手がけ、
現在はワシマイヤーの顧問としてOEMホイールの売り込みで大活躍:鮒子田 談)
そして高雄サンデーミーティングのmic清水さん(写真写ってなくてすんません)が登場。



非常に濃い濃ゆ〜いエンスートークが繰り広げられました。
はい、RQネタも、ESSO RACING TEAM STORYのネタも
またまた充実しましたので、追ってご報告します。
(今日はへろへろなので勘弁)

さて、そんな中、解良さんにFL360/500アウグスタ・シリーズの
変遷を聞いて参りました。
そこで、これまでニアルコと紹介してきたマシーンが
初代アウグスタであることが判明! ここに訂正いたします。

■1970年アウグスタ(Mk1)

タマチ工業が開発、生産したFL、ニアルコをベースにボディを換装。
RQブランドのFLとしてアウグスタと命名。
それぞれスポンサーに合わせ
リーバイスSPL(風戸裕)、スタッグSPL(解良)の名でレースに参戦。



■1971年 アウグスタMk2

解良喜久雄設計のシャシーをもつブランニューカー。ボディデザインは三村建治。
米山二郎、鮒子田寛、高原敬武、解良喜久雄らがドライブ。
「いま思えば危ないんだけど、このクルマ、
 燃料タンクが車体前方にあったんですよ(解良:談)」



■1972年 アウグスタMk3

アウグスタ・シリーズの最終形。設計は解良喜久雄、ボディデザインは由良拓也。
このクルマに関するエピソードは、今後のESSO RACING TEAM STORY にて!

ちなみに解良さんから、RQが開発、製作したレーシングカーの全てを
教えていただきましたので、それも追ってご紹介したいなと思っております。

ではまた明日。






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