2011.02.28 Monday

ESSO RACING TEAM STORY 第17回

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



【スタードライバーの招聘】

1972年の日本GPから本格的なレース活動を開始したESSO RACING TEAM。
その次の舞台となったのは、5月21日に富士スピードウェイで開催された
全日本オートスポーツトロフィー・レースの第1戦でした。

日本GPのみの契約だった戸張薫さんに替わって
ESSO RACING TEAMに加入したのは、
前年もRQアウグスタでFL500に参戦していた高原敬武さん。
その具体的な経緯は、改めて高原さんにお伺いしようと思ってますが、
これまでの経緯を考えると、スタードライバーの起用に積極的だった
山梨代表の意向で、契約したものと思われます。
(実際、当初のプレス発表時にも高原さん、鮒子田さんの参加が噂されてました)

またこのレースはFJ360ではなく、FL500規定で行われたため
スズキ仕様は400ccホンダ仕様は500ccのエンジンに積み替えられました。

迎えた予選では、高原車が7位につける健闘(解良車は18位)を見せたものの
決勝では、高原車、解良車ともに序盤でリタイアを喫しています。

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続いて6月11日に開催されたのは、北海道スピードウェイでの
東京オールスター・レース 札幌プロダクションカー・レースでした。

解良さんによると、その予選でこんなエピソードがあったそうです。

「このレースが最初、高原君がスズキエンジン(400cc)で走っていましたが、
 予選中、私(ホンダエンジン)よりタイムが伸びなかったので、
 ピットに呼び寄せられてクルマを交換した記憶があります。
 多分高原君はススキの2ストロークのエンジンの
 乗り方に慣れていなかったんでしょう
 (当時の2サイクルはスロットルの開け方が難しい)。
 レースは中野君(ベルコ)が優勝しました」

このように、すでに性能的に上であることが、日本GPの時点でわかっていた
スズキ仕様が、最初に高原さんに与えられていたという証言からも
エースとして高原さんがティームに迎えられていたことが伺えます。
(いずれにしろ、レーサー解良の実力が伺えるエピソードですが)

この予選でESSO RACING TEAMは、解良車3位、高原車7位を獲得。

迎えた決勝レースでも引き続き好調で、ESSOの2台は
中野雅晴(べルコ97A)、林将一(ハヤシ706)、
鴨志田正信(レオン72F)、佐島英規(アローS1)らとトップ争いを展開します。

決勝でハヤシ706(林将一)を抑える高原車。写真提供:尾崎郁夫

36周のレースで、トップから5位までが20秒以内という僅差のレースを制したのは
中野雅晴×べルコ97A。ESSOの2台は、林将一(ハヤシ706)についで
解良ー高原の順で3-4位フィニッシュと、日本GPに次いで惜しい結果となりました。


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このあとFL500のレースは、1ヶ月近いインターバルを迎えます。

しかしながら、その間にESSO RACING TEAMは新たな動きを仕掛けていました。
それが、ワークス・トヨタの若手のエースとして知られていた
高橋晴邦さんとの契約でした。


photo:前田恵介

当時晴邦さんは、トヨタ・ワークスであるTMSC・Rの
契約ドライバーの身。1973年からは、トヨタ・エンジン搭載車
または外国製エンジン搭載車に限るという条件で、ワークス以外の
活動にも参画することになるのですが、最初にESSO RACING TEAMに
参加したのはそれよりも前、1972年7月のことでした。

「確か山梨信輔さんから声が掛かったんだと思う。
 自分から言うのもなんだけど、山梨さんは僕のことを気に入ってくれてね
 ドライバーを辞めたあとも、事ある毎に“復帰しないか?”って
 言ってきてくれた。ただ僕自身F1に行けないんだと分かった時点で
 レーサーをスパっと辞めたから、復帰する気もなかったけどね。
 それから暫くしてからかな。中嶋悟がFJ1300でチャンピオン獲って
 イギリスに挑戦する前に、山梨さんと中嶋と一緒に会ったんだ。
 そのときに山梨さんが “これからはもう晴邦さんに復帰してくれ
 お願いしなくて済むよ”と言ったのを覚えているよ」

このジョイントには、長年トヨタのオフィシャルオイル・サプライヤーと
してESSOが活動していたことも関係があると推察されますが
いずれにしろ、高原&晴邦という強力な布陣で、ESSO RACING TEAMは
7月1日〜2日に富士スピードウェイで開催された
全日本オールスターレース大会に臨むことになります。

日本オールスターレースの予選を走る高橋車。
写真提供:尾崎郁夫(MPSの故 渡辺氏の作品)

1日の予選でスズキ仕様のESSO EXTRAをドライブした晴邦さんは
片山義美(コジマKE FJ-2)、山本俊茂(ハヤシ706)に次ぐ3位を獲得。
高原さんも予選6位と好位置につけます。

そして2日の決勝。期待された高原車はわずか1周でリタイアとなりますが
中野雅晴(べルコ)、本橋明泰(アロー)、高武富久美(ハヤシ)、
片山義美(コジマ)、高橋晴邦(ESSO)、阪口顕(コジマ)の6台がトップ争いを展開。
1位〜5位が16秒以内という接戦の中、晴邦車は5位でフィニッシュします。

結局、晴邦さんがFL500に出場したのは、後にも先にもこの1戦のみ
(やはりトヨタとの契約が影響したのでしょうか?)となってしまいましたが
晴邦さんとティームとのジョイントは、翌1973年に新たな展開を迎える事になります。
それはまた後日。
(つづく)


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※過去の記事

ESSO RACING TEAM STORY プロローグ1
ESSO RACING TEAM STORY プロローグ2
ESSO RACING TEAM STORY 第1回
ESSO RACING TEAM STORY 第2回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回補足
ESSO RACING TEAM STORY 第4回
ESSO RACING TEAM STORY 第5回
ESSO RACING TEAM STORY 第6回
ESSO RACING TEAM STORY 第7回
ESSO RACING TEAM STORY 第8回
ESSO RACING TEAM STORY 第9回
ESSO RACING TEAM STORY 第10回
ESSO RACING TEAM STORY 第11回
ESSO RACING TEAM STORY 第12回
ESSO RACING TEAM STORY 第13回
ESSO RACING TEAM STORY 第14回
ESSO RACING TEAM STORY 第14回追記
ESSO RACING TEAM STORY 第15回
ESSO RACING TEAM STORY 第16回



※ブログ右端のカテゴリー欄に
ESSO RACING TEAM STORY を追加しています。
過去の記事はそこからもご覧頂けます。






2011.02.26 Saturday

マクラーレンMP4/4 ホンダ × ジョー・ホンダ 写真集

 


Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



今日はちょっと宣伝。
以前、このブログで元モデルカーズ編集部の
モーターサイコ代表、山田剛久さん(通称ヤマダマ先生)が手がける
第1弾、ロータス97Tをご紹介したことがありました。

この本は、超絶モデルカーメーカーとして有名な
モデルファクトリーヒロさんによってリリースされている、
ジョー・ホンダさんのアーカイブを使った写真集なのですが
そのカルトっぷりが受けて発売以来大好評なのだそう。

やっぱ濃い人は多いのですね。ええ。

そんなヤマダマ先生からのオファーをうけ
ワタクシ、モータープレス藤原がお手伝いさせていただいたのがコレ。


でございます。

1988年、1.5リッターターボ最後の年に、セナ&プロストのコンビで
16戦15勝という圧倒的な強さを誇った伝説のF1マシーン。
ある意味、ブラバムBT55でトライされたゴードン・マレーの
低重心コンセプトを最適化した、地上最強の F1マシーン。
そんなMP4/4のすべてを、ジョー・ホンダさんの未公開写真とともに
紹介する1冊。


とにかく、現在残っている未公開写真はすべて載せる! という
コンセプトで作られているので、見た事無い写真も多数。
例えば、モナコの予選にのみ登場したリアのダブルデッカータイプの
ウイングなんて初めてみました。 

さらに今回は増ページで、現在ホンダ・コレクション・ホールに
展示されているシャシーナンバー5のMP4/4の細部を収めた
ディテールファイルまで付いてくる親切っぷり。
MP4/4に関する和書(英文併記ですが)としては、自分が手がけたから
言う訳ではありませんが、決定版といえる内容になっていると思います。

気になる定価は3300円。発行部数も少なく、一般書店には流通しません
リンドバーグさんなど一部店舗で販売)のでお買い求めはお早めに!

……あ、そういえば今週は富士GC同走会 が盛り上がった反動で
ESSO RACING TEAMがありませんでしたね。すいません。
ちょっと私用で明日のモータープレスをお休みしたあとで
月曜日に復活予定です。

では皆さん、よい週末を。







2011.02.25 Friday

追悼 ロン・ヒックマン(Ron Hickman)



Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



夜遅く、ロータス研究家の大塚さんから
悲しい知らせが入ってきました。

本来なら毎朝記事をアップするところですが
今日だけは、書き上げたこの瞬間にアップしたいと思います。





ロータス・エランの生みの親であり、ワークメイトの発案者でもある
天才エンジニアのロン・ヒックマンが、さる2月17日に亡くなりました。享年78。


僕がロン・ヒックマンに会ったのは、2002年の2月。
小雨降るガトウィック空港を飛び立ったプロペラ機に揺られながら
ドーバー海峡に浮かぶイギリス領ジャージー島へ渡り
彼の私邸である“THE VILLA DEVEREUX JERSEY"を訪ねました。

ヒックマン夫妻が微笑むこの冊子は、彼の私邸を訪れた人にもれなく
配られる、彼の豪邸を紹介したパンフレット。
見渡す限りが自分の土地という、広大な敷地に建てられたこの家は
完璧主義者ヒックマン自身の設計によるもの。
いわば、彼の最大にして最高の作品でもあるのです。


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1932年、南アフリカで生まれた彼は、地方の役所勤めをしていた1954年に
長年の夢であった自動車デザイナーになるためにイギリスに渡り
英国フォードのデザイン部門に転がり込みます。

そこでゾディアックやゼファーのリファイン、没になった
アングリアのスポーツプロジェクトを手がけながら、
平行して南アフリカの自動車誌の記者として寄稿する日々を送っていました。

そんな彼に転機が訪れたのは1956年。アールズコート・ショーの
ロータス・ブースで出会ったアルフレッド・ウルフの薦めをうけ
後日、フォード・デザイン部門の仲間であった、ジョン・フレイリング、
ピーター・ケンブリッジとともに、ロータス社を訪れるのです。

そこで彼らがコーリン・チャプマンとともに対面したのが
ロータスが秘密裏に開発を進めていたFRPシャシーをもつ新型スポーツカーでした。

結局、これを期に彼らはロータスに参画。のちに“エリート”と名付けられる
スポーツカーの主要開発メンバーとなるのです。

非常に珍しいホーンジー時代のエリート生産現場写真

エリート誕生後、様々なトラブルでフレイリングはロータスを去りますが
ヒックマンは生産者部門のデザイナーとしてロータスに残り
ロータス版ヒーリー・スプライトとして企画された“エラン”を生み出します。

1962年のアールズコート・ショーに展示するために作られた
エラン・プロトタイプの製作風景。

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2002年のあの日、僕はヒックマンのアトリエで朝から7時間に渡り
みっちりと、その当時の話を聞きました。

大きな身振りで熱弁をふるったかと思うと、突如席を外して他の作業に没頭したりと
(インタビュー中にも関わらず!)奇想天外な行動をするヒックマンに振り回されながら
知りたかった色々なことを必死になって聞いたのを、昨日の事のように思い出します。

エリートの生産化に尽力し、エランでFRPボディ+バックボーンフレームという
その後のロータスのスタンダードを作り上げ、さらにヨーロッパの基礎デザイン、
エラン+2のデザインを手がけるなど、1960年代のロータス黄金期を作り上げた
張本人であったにも関わらず、フォードの援助を受け株式上場を目論む
チャップマンに冷遇され、失意のうちにロータスを去ったヒックマン。

結果として、ロータスを辞した数年後、ふとしたことから
家庭用作業台“ワークメイト”を開発し、そのパテント収益でイギリスを代表する
ミリオネアとなった彼ではありますが、そのロータスにおける功績は、
いまだに過小評価されたまま、といってもいいかもしれません。


そんな彼の訃報を聞き、久々にトランクに仕舞い込んでいた資料を取り出してみました。
これはヒックマンから譲り受けた、当時のレンダリングや図面のコピー。


これは、チャプマンの指示により当初FRPモノコックで設計が進められていた
エランの開発状況が思わしくなく、バックボーン式に変更するべきだという
ヒックマンの主張を書いた書簡。
(ヒックマンによると書簡を書いて進言するという解決案を出したのは、
 マイク・コスティンであったという。ワンマンだったチャプマンと、
 当時の開発陣の間にコミュニケーションが存在していなかったことを示す、
 貴重な資料でもある)

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今思い返してみると、このヒックマンへの取材が、
“アシで稼ぐ大切さ”を教えてくれた、僕の編集者人生に
とっての重要なターニングポイントでした。

……あまりのショックに取り留めのない文章になってしまいましたが
改めて、いちロータス・ファン、エラン・ファンとして
ヒックマンに会って話を聞けた事は、とても幸せだと思います。

ヒックマンさん、本当にありがとうございました。
貴方に聞いた人生訓は、今の僕を動かしている大事な要素のうちのひとつです。
どうぞ安らかに……ご冥福をお祈りいたします。


















2011.02.24 Thursday

ALL NEW CONTINENTAL GT

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



少々報告が遅れましたが、さる月曜の夜
新しくなったベントレー・コンチネンタルGTのプレス発表会にお邪魔してきました。


VW傘下となったベントレーが2003年に発表したコンチネンタルGTが
ラグジュアリースーパーGT市場で大ヒットを飛ばしたのはご存知のとおり。

今回、久々にフルモデルチェンジを果たしたコンチGTは、かつて
FLYING Bなるベントレー専門誌を作って、散々馴染んできたつもりの
我が目をもってしても「どこが変わったの?」と思わせるほど
ストレートなキープコンセプトで登場。デザイナーのロビン・ペイジ(写真右)曰く
全幅が拡大した事で、より自由なデザインができたとのことでしたが
たぶん、新旧ニューミニ以上に、その差を見つける事は難しいかも。

まぁ、得てしてヒット作の後継というのは、難しいものなのでしょうけど
個人的には2400万円オーバーのクルマである以上、もう少し斬新なトライが
あっても良かったのでは? と思いますが。

とはいえ、その中身は一昨年に発表されたスーパースポーツで、
先行投資(そういうことだったのね)された各種技術が
盛り込まれているそうですから、こちらは期待大。
なんか、VW傘下になって開発のペースも実にシステマチックになりましたね。

そんなベントレーの発表会で個人的にビックリしたのがコレ。


おおー! と思った人は鋭い。
この写真、新しいコンチGTのコックピットなのですが、なんと発表会に
展示されていた個体が右ハンドル仕様だったからなのです。

ん? 英国車なんだから当たり前だろ??

と思われるかもしれませんが、昨年のミュルザンヌも、それ以前の
スーパースポーツも、コンチ・スピードもなにもかも、発表会に展示される
クルマはもちろん、広報車もすべて左ハンドルというのが、
ベントレー・ジャパンの基本スタンス。
というのも、日本で販売されるクルマのほとんどが左ハンドル仕様だからなのです。

最初、その話を聞いた時は、未だにベントレーはUS仕様を手直しして
日本に入れているの? と思ったものですが、実は日本で買われる顧客の
オーダーが、左ハンドル指定なのだとか。

確かに幅の広い(今度のはミラー開状態で2227mmですぜ!)クルマ故
LHDの方が運転し易いとか、それまで乗っていたクルマと同じLHDの方が
慣れているとか、理由は色々あるんでしょうけど……。変なの。
ちなみに発表会のクルマがRHDなのは、たまたまなんだとか。
別室にはちゃんとLHDも飾られておりました。

数十年後、コンチGTがヒストリックカーになったときに
今のEタイプや各種英国車のようにRHDが珍重されるようになったりして。


ところで、イタリアの野口祐子さんからこんな悲しい知らせが届きました。

カー・マガジン352号より

復刻版ミッレミリアでの優勝をはじめとする、数々のヒストリックカー
レギュラリティランでの活躍や、ラリー用計測器“ボーラ”を製造する
Digitech社の社長であるルチアーノ・ヴィアロさんがお亡くなりになったそうです。

個人的に、過去数回カー・マガジン誌で彼のコラムを連載したときに
お付き合いがあったのですが、とても気さくなオジサマでした。
盆栽を趣味(!)とする親日家でもあったルチアーノさんは、
何度も来日されて色んなイベントにも出場されてましたから、
ご存知の方も多いと思います。残念です。

そして、さらに……

ALFA ROMEO TZ  ZAGATO-AUTODELTA-CONRERO 
The cars,The Race Results (Philippe Olczyk著)より

1950年代にスタンゲリー二のドライバーとして活動したり
1967年のモンザ1000kmでアルファ・ロメオTZ2(750 106)をドライブした
リカルド・ディ・ボーナさんもお亡くなりになったんだとか。

ご冥福をお祈りします。






2011.02.23 Wednesday

2011 富士GC同走会 その4

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



photo:前田恵介

4回目を迎えた、MFC主催 富士GC同走会のレポートですが
今回は、レースの裏側をちょっとご紹介しましょう。


photo:前田恵介

まずはこれ。先日お亡くなりになった櫻井眞一郎さんを追悼して
MFCメンバーの所有する所縁のクルマが展示されておりました。
こうしてみると、改めてR380はカッコいいなと。
あれ? R380って1型も2型もキットってありましたっけ?
聞いときゃよかった。

photo:前田恵介

一方、個人的にとーーーっても気になっていたのは、
ボディだけ展示されていた紫電。相変わらずキレイですよね、紫電。
しかもモデル自体のフィニッシュも美しかったです。
これ、走らせたらどんな感じなんでしょうかねぇ?  
(あ、ちなみに小さい写真はポップアップします)


そして、昨年以上にメディアもギャラリーも多かった今年のイベントで
より充実を見せていたのが、お宝の数々。

歴代のGC、日本グランプリのパンフレット(美品!)とか。
81年の富士GC 300kmスピードレースのカーバッヂだとか。

photo:前田恵介

さらには、富士のフルコース図から、昔の写真から
歴代プリンス車のカタログから……それは出るわ、出るわ。
ゆっくり見させていただくことができませんでしたが、
これだけで1冊本作れそうな気配。

これは休憩時間中のワンショット。MFCの田村さんとともに
愛車ピロビタン・ローラに車載カメラを装着する津々見さん。
走らせながら電波飛ばして(表現古いですか)、i Phoneで見られるのですよ。
最初はブレるんじゃないか? と思ってましたが、意外にも(失礼)画像はキレイ。
最初は単独走行でしたが、そのうち並走とかもさせたりして、楽しんでおられました。

そして、今年の富士GC同走会では、初の試みとしてレース終了後に
関係者を集めた懇親会を開催。舞台になったのは世田谷 尾山台のイタリアン、
トラットリア ロアジさん(phone:03-3703-2662)。

そこにスクリーンを持ち込み、原 富治雄さんの写真のスライドショーや
過去の映像を流しながら
(本当は78年GC最終戦を見る予定だったのに……不発ですいません)
楽しいひとときを過ごせました。

その懇親会に現れたサプライズゲストがこの方。
伝説のプライベーター、ドクター漆原こと漆原徳光さん(左)。
そして右にいらっしゃるのは、これまたノバやムーンクラフトなどで
数々の作品を生み出したエンジニア、宮坂宏さん。

photo:鮒子田寛(!)

漆原さんといえば、ロータス41、69を乗り継がれた(いずれもex生沢車)
ロータスマニアにとって垂涎のキャリアをお持ちの方ですから。
一度お会いしたいと思っていた僕は大感激。
(ちなみに41はビッグサンガレージから買ったもので、元生沢車とは
 ご存知なかったそう。日本に渡った41を調べる上で貴重な証言であります)

「私はプロではないし、社会人としての生活もありましたから
 一度たりとも全開で走ったことはありませんよ。だって危ないじゃないですか(笑)」

とサラリと仰っておられましたが、それであの成績を
残されたっていうんですから、スゴい話です。

引退を決意された際に、あの片山義美さんが勿体ない! と引き止めた
というエピソードを漆原さんから伺いましたが、それも頷けます。

そして高橋晴邦さんと盛り上がっているのは、高原さんの女房役として
黄金時代を支えた名メカニックの小倉明彦さん。

ちなみに小倉さんには、川崎(僕の自宅の近く)にあったという
高原レーシングについて伺ったのですが、
なんと鈴木誠一さんのご自宅の1階ガレージを間借りしていたんだそう。
(期間はそんなに長くなかったそうですが)道理でそれっぽい跡地がないはずだ。納得。

photo:前田恵介

こうしてレース以外にも色々な話題を残して
この素敵な土曜日は幕を閉じたのでありました。

皆さんお疲れさまでした。
そして、大会の開催に尽力されたMFCの皆さん、
リンドバーグ・レースウェイの伴野さん、スタッフの方々
富士GC名誉会長の鮒子田さん、本当にありがとうございました。

最後になりましたが、大先輩、山口正己さんのブログにも
この模様が掲載されてます。ではでは。




2011.02.22 Tuesday

2011 富士GC同走会 その3

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記




今日は、さる19日に行われた
MFC主催 富士GC同走会にエントリーした各車と
レーサーの皆さん(エントリーリスト順 )をご紹介しましょう。

photo:前田恵介 (ドライバーの写真はポップアップします)

伊太利屋ロータリー マーチ75Sでエントリーの関谷正徳さん
79年に静マツレーシングからエントリー、開幕戦でいきなりトップ争いを
演じた時のマシーン。レース後の懇親会では、当時の写真を見ながら
「この頃はチャラかったですねぇ(笑)」と仰っておりました。
そんな関谷さんは今年から新たなレースプロジェクトを始動されるとか。
その詳細はまた追ってご報告します!

こちらは前年の富士GC同走会の覇者、高橋晴邦さん
自身が監督を務めたウォルターウルフ シェブロンB36で参戦。
良ーく見るとドライバーのヘルメットが晴邦仕様になっております。
また、今回欠場となったスロットカーマイスターの高原敬武さんに
“打倒晴邦”と言わしめるテクの持ち主でもあります。
併せてESSOの頃のお話もちょろっと伺ったのでまたの機会に。

このイベントの常連、津々見 友彦さんはピロビタン ローラT292で出場。
津々見さんといえば、故 阪納さんモディファイによるスペシャルT212の
イメージ(HKSターボとか!)が強いですよねぇ。
そして“新しモノ好き”としても有名な津々見さん、今回は休憩時間中に
車載カメラでの走行シーン撮影にもトライされてました
(これ、なかなかスゴかったっす)。

この富士GC同走会のトップランナーのひとり、寺田陽次郎さん
今でも某所にホンモノが現存しているシェブロン マツダB36を駆っての参戦。
そのクレバーな走りは1/24でも健在で、今回も晴邦さんと熾烈な優勝争いを展開。
果たして来年5階目を迎える富士GC同走会で、総合チャンピオンを獲得するのか?
も見所だったりします。

昨年復活したタキレーシングのローラT70の取材でもお世話になった
長谷見昌弘さんは、数多くドライブされたGCマシーンの中でも
異色(?)のアルピーヌA441で参加。2009年のウィナーでもある
長谷見さんも総合チャンプを狙うひとり。序盤はドライビングに苦しまれた(?)
様子でしたが、次第に復調して後半では見事なコントロールを披露! さすが。



カメラマンの原 富治雄さんは、風戸裕が73年にドライブした
シェブロンB23を駆ってエントリー。このクルマ(実車)のメンテも解良さんでした。
レース後の懇親会で披露された、原さんのGCを主体とした写真の数々は圧巻の一言。
春にはそんなGCマニアの心をくすぐるイベントも企画中とのことで、
そちらの情報も追ってご報告いたします。

この富士GC同走会の名誉会長であり、ドライバー側のまとめ役を
買って出てくださっている鮒子田寛さん(ご苦労様です)は、これまた懐かしい
マルボロサファリ マーチ75Sでエントリー。当初無骨なオリジナルカウルだったのを、
第3戦からムーンクラフト製に換えて参戦した仕様を再現したものですね。
レース後の懇親会では、チャンピオンを決めた72年GC最終戦での秘話など
面白いお話も聞けました。これはまた後日このモータープレスにて。

大雨の72年GC第2戦で、並みいる強豪をおさえZで総合優勝を果たした
伝説のZ遣い柳田春人さんは、当然(?)のように日産フェアレディ240Z SP
(カッコいいー)で参戦。唯一のプラボディ(他はレジン製)ながら、
車高が高いという絶対的なハンデをものともせず、果敢な走りを披露。
さらに場外で爆笑を誘うテクもさすが!

昨年から参戦のSTINGER編集長の山口正己さんは、
永松邦臣×田中健二郎のチーム・マグナムが走らせたロンソン2000をドライブ。
折しもF1のバルセロナ合同テストが真っ最中(バーレーンダメでしたね)
ということもあって、朝の6時まで仕事をしたあとでの参加だったそうな。

ミニカーメーカーとして有名なEBBRO代表の木谷真人さんも初参戦組のひとり。
鮒子田さんが72年にGC王者を獲得した時のオンワード・シェブロンB21Pをドライブ。
エブロさんといえば、1/43のGCシリーズもリリースされていますもんね。
いっそ全種類出していただきたい! と思いつつ、お財布が心配。

こちらもマニアック作品を続々と送り出すミニカーメーカーとして有名な
Q MODEL代表の最上久三郎さん。当初は木谷さんとのジョイントの予定
だったのですが、戸谷千代三さん欠席のため、レノマ マーチ74Sロータリーをドライブ。
その昔、相当スロットにはハマったとの言葉どおり、腕前は超一級。

そしてジャーナリスト枠から出場の桂伸一さん。ジャーナリストとして、
レーサーとしてはもちろん、ラジコン、スロットの鬼(?)としても有名な
桂さんは、今回の優勝候補のひとり。ワタクシも教えていただきました(多謝)。
ドライブしたのは、これまたマニアックな風戸仕様のマーチ73S。
確かテストで乗っただけで実戦には出なかったのですよね。

最後はお恥ずかしながらワタクシ藤原でございます。
昨年は取材の身でお邪魔しましたが、今回エントラントとして参加させていただき
初めてながらスロットカーの魅力にハマった次第。
そりゃー後にも先にも、このメンバーの中でポールポジション(くどい!)を
獲れることなんて、絶対にあり得ない事ですから。ハハハ。
その反面、長い長い決勝レースが進むにつれ、集中力がキレてコースアウトが多くなる
僕に対し、コースアウトせずにペースも上がっていくプロドライバーの皆さんとの
精神力の差というか、勝負にかける気持ちの差をまざまざと見せつけられ
普段の取材では知る事の出来ない一面を垣間みられたのも、また収穫でした。

そんな第4回 富士GC同走会の結果がどうだったのか?
それは、是非MFCさんのHPをご覧ください。
明日はそれ以外のコボレ話をお届けの……予定。


2011.02.21 Monday

2011 MFC 富士GC同走会 その2

 


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おはようございます。
さて、土曜に開催された富士GC同走会の模様をアップ
……するはずでしたが、すいませんドタバタしてて進んでません(涙)。
そのお詫びというのも何ですが、今回集まった皆さんとの集合写真をどうぞ。

photo:前田恵介

皆さん楽しそうでしょう?
この笑顔がすべてを物語っております。ええ。

ちなみにこの写真、昨日お伝えした、エントリーリストに載った
グレーテッドドライバー以外にも、よぉーっく見ると
色んな方が写っております。

わかりますか?
というわけで今日はこれでおしまい(すいません)。
明日は参加各車とドライバーをご紹介予定。

んでもって、今晩は新型ベントレー・コンチネンタルGTの発表会にお邪魔。
そーいえば発表会なんて久しぶりかも。
そんな模様もまた追って。

ではでは。




2011.02.20 Sunday

2011 MFC 富士GC同走会 その1

 

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昨日、世田谷のリンドバーグ・レースウェイで行われた
MFC(Modelcar Racing Fan Club)さん主催による富士GC同走会に参加して参りました。


昨日もお伝えした通り、往年のグレーテッド・ドライバーが、
1/24に縮尺された自らの愛車を駆って熱いバトルを繰り広げるという
このイベント。なんといっても、その集合したメンバーがスゴい。


関谷正徳           伊太利屋ロータリー マーチ75S
高橋 晴邦             ウォルターウルフ シェブロンB36
津々見 友彦          ピロビタン ローラT290
寺田 陽次郎            シェブロン マツダB36
長谷見 昌弘                        アルピーヌ ルノーA441
原 富治雄(カメラマン)   シェブロンB23(風戸車)
鮒子田 寛           マルボロサファリ マーチ75S
柳田 春人                                   日産フェアレディ240Z SP
山口 正己(ジャーナリスト)  ロンソン2000
木谷 真人(EBBRO代表)       オンワード シェブロンB21P
最上 久三郎(Q MODEL代表)レノマ マーチ74Sロータリー
桂 伸一(ジャーナリスト)   マーチ73S(風戸車)
藤原 よしお          マルゼンテクニカ ローラT292
(エントリーリスト順 敬称略)

当初参加予定だった、見崎清志さん、高原敬武さん、
戸谷千代三さん、福士克二さんらが
ご都合が悪くキャンセルということになりましたが
それでも、名前を聞くだけで興奮するビッグネームが集結。
その中にワタクシも末席ながら混ぜてもらいました。

しかも今回の愛機がこれ↓


あの故 鈴木誠一さんがドライブしたマルゼンテクニカ ローラT290BDA。
73年の富士GC最終戦に現れたロングテール仕様。
このレースで誠一さんはブッチギリの優勝を果たしています。

そんなメモリアルマシーンをワタクシごときがドライブして申し訳ないのですが
誠一さんと同じ川崎市某地区に住んでいる……繋がりということで。ええ。
いずれにしろすっごいプレッシャーであります。

しかも生まれてこの方、スロットカーやるのなんて初めて!
というわけで、大先輩の桂さんに手取り足取りアドバイスをいただいて
なんとかコツを掴めたかな? というところで開会式。


このイベントの主宰であるMFCの田村さんと、
富士GC同走会 名誉会長の鮒子田さんとで開会の挨拶。
MFCスタッフの皆さん手作りのマシーン持参の
プライベートイベントですからね。
その姿勢には頭の下がる思いです。

さて、このレースは6レーンあるリンドバーグ・レースウェイのコースを
1レーン5分間×6ヒートで争われる長距離レース。
その総合周回数の多さを競います。

ということで、まずは3ラップのうちのベストラップで争われる予選からスタート。
なにはともあれ、ど初心者のルーキー? ということで、ワタクシから予選出走。
あくせくしつつ、なんとか規定周回を終了。





……そしたら、いきなりポール・ポジションを取ってしまいました。
ただの賑やかし枠での出走だったのに……。
もう大ひんしゅく。
“空気の読めない男”、波乱のスタートです。
(つづく)

2011.02.19 Saturday

往年のグランチャンが蘇る?

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



今日はこれから、世田谷のリンドバーグ・レースウェイ
MFCさん主催による富士GC同走会。
往年のグレーテッド・ドライバーが、1/24に縮尺された
自らの愛車を駆って熱いバトルを繰り広げる(はず)です。

ワタクシもその末席にお邪魔させていただくのですが
その模様は、また明日以降のモータープレスにて。

さて、そんな富士GC繋がりというわけではないのでしょうが、
おなじみ日本クラシックカー協会(JCCA)代表の岡さんから電話が。
なんでも来る4月10日に富士スピードウェイで開催される
ヒストリックカーレース“富士ジャンボリー”で、
2リッター以下のプロトタイプスポーツを対象とした
カテゴリーを発足させる(とりあえずはレース形式だそう)のだそうです。

今年から海の向こうヨーロッパでも、2リッターGr.6のヒストリックレースが
行われるそうですからね。ま、日本の情勢を考えると全てGr.6とは
いかないでしょうから、1960年代のプロトも混走ということになるのでしょうが。
それでも、本格的レーシングスポーツのカテゴリーができるのは大歓迎。


今後、日本に眠る数多くのクルマが復活してくれば
このような往時の富士GCの再現! ができるかもしれないですね。
そこに明日集まるようなドライバーがゲストとして参加されたりしたら
いいんじゃあないでしょうか? 
そういうショー的要素を盛り込んだヒストリックレースがあってもいいですよね。

この件に関しては、続報が入り次第お伝えします。
(参加希望の方いらっしゃったら、ご連絡を)

閑話休題。そんな話題に興奮して、書棚にあった79年のGCのパンフを
取り出してみたのですが、その裏を見たら当時のブリヂストンの広告が。


おおーーーーノバ53Sだ!
……という話ではなく、僕が注目したのは広告の下。

『ブリヂストンのレーシングタイヤは、下記の4ヶ所の販売店からお届けします』

というキャッチの下に、玉川通り沿いに今もあるパドック246が
掲載されているのを発見したから。

へーあそこでBSのレーシングタイヤ買えたのですか。
知らなかった。

たぶん、今行っても買えないと思うのであしからず。

ではまた。










2011.02.18 Friday

折懸スピードショップのCB72



 
Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



おはようございます。
相変わらずバイク熱醒めやらぬ今日この頃。
数年前の引っ越しでクラブマン誌十年分を処分したのを後悔しつつ
いまや休刊となった伝説のクラシック・バイク専門誌
 Classic MOTOR CYCLING を読みふける日々。

そんな僕にあの解良さんからこんな写真がメールで。


写真提供:解良喜久雄

藤原さんが
バイク好きとは知りませんでした。
当時の写真送付します。
CB72のレーサーです。
CR110(ミッキーマウス)のエンジンもO/Hをした記憶があります。


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というコメントとともに送られてきたのは、
以前、コニリオの記事をご紹介した時と同じ
恵比寿にあった折懸スピードショップの軒先。

Z50Mモンキー(これも欲しい)の奥に並ぶレーサー2台。
大径のドラムブレーキといい、メガホンマフラーといい、
CRタイプのタンクといい、セパハンといい、なんだかタダモノではない雰囲気。

そして解良さんが、あの超絶市販50ccレーサー、CR110まで手がけていらしたとは!

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藤原さん

手前のCB72はスペシャルで、カムチェーンから
ギアトレーンになっていました折懸スペシャルです。

奥はお客さんの町乗り用、エンジンチューンした記憶があります。
当時はホンダの谷口さん、ヤマハの野村さん、カワサキのアラオカさんと
著名な人たちが出入りしていました関係で、バイクのエンジンが多い流れで
ヤマハの250のレーサーからホンダまで色々触りましたが
やはり後半は2ストロークが速くなりましたね。
そして世の中が4輪ブームになりS600、800と移って行き
コニリオにつながります。当然ヨシムラさんも同じです。

N360の450cc UPは私が最初か2番目位と思います。
ピストンはCB450(バルブスプリングがトーションバー)
ライナーはマツダのファミリアを使いました。
その後だんだん排気量が上がり500、550?と成った記憶があります。

当時360度クランクを180度クランクに変更時に
カムシャフトをステライトで肉もりをして、手でカムシャフトを加工しました。

そのエンジンで戸張君、私、吉沢君含めて数台チューンして
ヨシムラさんと戦いましたね。
エンジン、シャシー製作、レースとあらゆる経験が後々役に立ちました。
楽しくも懐かしいです。

解良

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いやー。これはなんというかスゴい話。
CB450のピストンを使って排気量をあげる話は聞いた事がありますが
ライナーがファミリア用だったとは!
しかも450cc化の先駆が解良さんだったとは!

以前長谷見さんに取材した時に、
「今のメカはボルトオンの修理ばかりで、アルゴン溶接とかできないのもいるよ」
という主旨の話を聞いた事がありますが
やはり、この当時から色々な経験をされていたのが
後のコジマF1をはじめとする、数多くの作品に繋がっていくのでしょうね。

ますますバイク欲しくなってきたなぁ。


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