2011.03.31 Thursday

SAVE JAPAN!

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記


早いもので、もう3月もおしまい。
1年の1/4があっという間に過ぎてしまったなんて。
それだけ、色んな事があったという事でしょうか。
さて、本来であれば、ESSO RACING TEAM STORYのつづきを
お送りしようと思っていたのですが、今回の東北関東大震災にまつわる
メッセージをお預かりしたので、今日はそのお話をお送りします。

まずはモータープレスではお馴染みの鮒子田寛さんのメールから。

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藤原さん

あるレース関係者Tさんから、心温まる話題を知らせて頂きました。
今回の大震災で被災された人たちを助けようと
頑張っている皆さんの事を、藤原さんのMotor Pressで
紹介して頂ければと思い転送します。

よろしくお願い致します。


鮒子田 寛

******************

鮒子田 様

今は、支援活動以外の明るい話題と楽しい話題が悪い事のように受け取られ、
こんなに皆が自重して動かないでいたら、商店や企業は売り上げも確保できず、
益々元気が無くなってしまうのではないかと心配になってきます。

レースの世界で救われるのは、若い仲間達が災害支援活動に
積極的に動いて明るい話題を提供してくれていることでしょうか。
4輪では脇阪寿一さんが「SAVE JAPAN」というメッセージのもと、
他の選手にも声を掛けて募金活動を始めてくれたのはご存知だと思います。


2輪では、元ワールドGPライダー/全日本チャンピオンで、
昨シーズンを最後に現役を引退した伊藤真一さんが仙台空港近くの名取市の自宅で被災、
他にも全日本で走っている2名のライダーが被災しました。
幸い、伊藤さんの自宅にソーラー発電機が設置してあり、
自分の家族の為の少ない食料を温めて周辺の人達に分配して食いつないでいたのですが、
そのような中、ライダーの仲間達が災害地を支援するために立ち上がり、
まずは、埼玉県在住の亀谷長純さんが関東地区の仲間と共に
自分のトランポで当面の物資を伊藤さんに届けました。
次に、中部地区と関西地区に住むライダー仲間が生活物資や
レース用に備蓄していたガソリンを浜松市に住むHRCの秋吉選手の自宅に一旦集め、
次に、伊藤選手と共に現在もチームを運営している小原斉さんが
埼玉県の自宅から一旦、西の浜松まで移動して物資を受け取り、
その後、東京を通り越して仙台の伊藤さんの自宅に運び、
伊藤さんが現地の仲間と共に周辺の避難所や施設を回って
被災者の皆さんに物資を分配するという作業を始めました。

若い彼らの現場に即したタイムリーな活動には頭が下がります。

本日、2度目の輸送で現地から戻ったメンバーから
『ガソリン不要で誰でも使える自転車が有効、できるだけ多く集めて欲しい』
との声が届いた為、不要になった自転車を回収する手伝いをする事にします。

今まで散々好きな事を遣らせて貰ったので、少しだけ恩返しの日々です。

●2輪メンバーで実際に行動している選手会のブログです。
●その中でも一番最初に動いてくれた亀谷長純さんの3月19日のブログです。

TK拝

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伊藤真一さんといえば、1980〜90年代にバイクで青春を過ごした者にとっては
アイドルというか、ヒーローというべき存在。WGP引退後は8耐マイスターとしても
名を馳せた名ライダーですが、被災されていたとは知りませんでした。

お金で、失われてしまった日々や生活が完全に取り戻せるわけではありませんが
僕らにできる数少ない援助のひとつが義援金であることに間違いはありません。
合わせて、モータースポーツ界からも有形無形、様々な援助や支援の輪が
広がっている事は素晴らしい(2輪も4輪も多くのレースがキャンセルや延期になって
ダメージを受けている人は多いはず)と思います。

鮒子田さん、そしてこの情報を寄せていただいたTさん、ありがとうございました。

そして、たまたま帰国したその日に成田で地震に遭遇した
イタリアの野口祐子さんからも、こんなメールが届きました。

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3月11日に成田空港に着き、バスを待っている時に、地震発生。
それからずっと成田空港に缶づめ状態。直ぐに携帯が通じなくなったため、
状況把握が出来できず。空港の大画面に映る災害の映像も何が何だか分からなかった……。


毛布、水、クラッカー、そして段ボールが配られ、皆空港で眠る準備。
その頃は、未だことの大きさに気付かず、ワイワイ、ガヤガヤと結構、
和気藹藹にお花見気分の人も多々。


運良く、家族が夜の12時を過ぎて迎えに来てくれた。
家までの道のりが余りにも暗いのでビックリ、信号も真っ暗だった。
コンビニも閉まっていた。

その日から、状況は悪化し、外に出られないので、
TVにかじりついてニュースを追いかける日々。
イタリアの友人たちは、皆口をそろえて”帰って来い!
家族を連れてでも良いから帰って来い、そんな危険なところに居てはダメだ!
とヒステリックに連絡をよこす。

未だ未だ原発問題が治まらないまま27日、イタリアへ戻った。
イタリアに入ったらどんな検査があるか、興味津々だったのだが、
全く検査なし、何も聞かれなかった。一体あの騒ぎは何だったのか?

さて、日常生活に入り、街を歩くと、日本人だと知ると、皆が声をかけて来る。
兎に角、ここイタリアは原発が無い国。
でも今、まさに原発を作ろうという動きになっているので、皆気が気ではない。
TVでの映像がイタリア人の心を動かしたらしい。日本人は素晴らしい!と大絶賛。
イタリア人は日本人から学ばなくてはならない! 
と、日本人であるということだけで、皆から誉められた。

2009年4月、イタリアのアブルッツォ州のアクイラという街に
マグニチュード6.3の大きな地震が起きた。新潟中越地震とほぼ同じという。
死者150人、行方不明 250人、負傷者1500人、家を失くした人は7万人。
イタリアの建築物は耐震構造ではないので(数百年前の建物も多々)
少しの揺れで、崩壊してしまう。

その時の映像を振り返る。自分が悲劇のヒロインのように、
大声で喚いたり、怒ったり……それはそれは悲惨だった。
こんな光景に慣れているイタリア人は、
今回の1000年に一度という被害を被った日本人が何でこんなに
冷静に対応しているか不思議なのだろう。

さて、イタリアに戻り、点検のため預けてあった私のトヨタ・アヴェンシスを
取りに行った。ここでも、ディーラーの人が全員が、”大丈夫だったか!”と
挨拶に来てくれた。彼らはトヨタに誇りを持っている。
トヨタ社のこの地震対応に関してを説明してくれた。
全トヨタ(Toyota motor Corporation)で3億円の義捐金。
そして、イタリアにはディーラーが104、オフィシャル修理工場が30。
この全店舗で義捐金を集めている。今月末に結果がでるらしい。
かなりの金額になるだろうと言っていた。
また、地震後1週間経った、3月18日、14時46分。
イタリアトヨタ全店舗で、1分間の黙とう。
日本では60人のトヨタ社員が被災地に行って、支援をしているという。
トヨタの活動が全てのトヨタのディーラーに伝わってくるらしい。

上記のアクイラの地震の時、アクイラのディーラーが崩壊したため、
イタリア全土のトヨタから義捐金を集め、11万ユーロ(約1300万円)になったという。

私が通っているトヨタディーラーのCLEMENTIの経営者はトヨタ社の
この心遣いを絶賛していた。

そこで今回の他社の動きも調べてみた。
●アウディ       100万ユーロ
●フォルクスワーゲン  100万ユーロ
●ポルシェ        50万ユーロ
(全グループで250万ユーロ、2億8000万円)

●フィアット 10万ユーロ
●フィアット従業員 10万ユーロ
(全グループで20万ユーロ=2450万円)

●日産    3000万円
●三菱    3000万円
●スズキ   3000万円
●ダイハツ  3000万円

この金額は被災して直ぐに送られた金額。
その後、各社で義捐金活動をしているので、まだまだ増えることでしょう。

ところで、皆さん。これからイタリアで義捐金活動をする予定なのですが、
そのお金が確かに被災地に着く、それも半額以下ではなく、
寄付したお金がそのまま被災地にいく……というシステムは無いのでしょうか?
何処の団体を通すのが宜しいでしょうかね? ご存じでしたら教えて下さい。
では。


野口祐子
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イタリアの地震も、四川の地震も、スマトラの地震も、NZの地震も
チェルノブイリの事故も、NYのテロも、イラクやアフガンの戦争も、リビアの内乱も
心配には思いながらも、どこか距離を感じていた僕。

でも、こうして内外から援助の手が差し伸べられる話を聞く度に
自分の至らなさを恥じるとともに、自身は被災していないにも関わらず
感謝の気持ちで正直涙が出てきます。

僕個人としても、こうした復興活動の協力は可能な範囲でさせて
もらっておりますが、モータープレスでも、そうした皆さんの活動は
今後も事ある毎に報告させていただきたいと思っております。

1日でも、1秒でも早く、皆に笑顔が戻りますように!






2011.03.30 Wednesday

ロータス102ランボルギーニが復活!

 
Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



未だ大震災からの復興の手がかりさえ掴めない今日この頃。
子供のころ、広島や長崎を例に放射能の怖さを散々教えられてきた身としては
“人体に問題のないプルトニウム”なんて聞かされると
なんか誰も本当の事を言っていないじゃないか? と猜疑心にとらわれてしまいます。
個人的には新幹線が150km/hになろうと、テレビが夜9時に終わろうと
ネットが1日中繋がらなくなろうと、真夏にクーラーが効かなくなろうと構わないから
誰もが安心できる電力の供給体制を再構築してくれることを望むのですが。
僕らが20年やそこらで死んじゃうのは構いませんが
子供たちには、まだまだいーーーっぱいの未来が控えているんですからね。


さて、そんな大震災の影響は我々自動車界にも大きな影響を及ぼしています。
例えばFポンやスーパーGTの開幕戦が延期されたことは
いろんなメディアでも報道されていますが、春に本格的なシーズン到来を迎える
ヒストリックカー・イベントにも延期や、中止の話が出ています。
大きなイベントをざっと調べてみただけでも、ご覧の通り。


コッパ ディ 小海                9月10〜11日へ延期


JCCA 富士ジャンボリー        開催中止(4月10日)

JAPAN LOTUS DAY 2011        開催中止(4月17日)

カフェ・ド・ジュリア2011        開催中止(4月17日)

JAPAN MINI DAY in 筑波                           開催中止(4月29日)


ただこの一方でマロニエ ラン in 日光(4月23日〜24日)、ABARTH DAYS(4月23日〜24日)、ヒストリックカーミーティングin知多・渥美(5月7日)などは、
予定通り開催されるようです(詳しくは直接各主催者にお問い合わせを)。

確かに、このご時世、ガソリンを使ってクルマで遊ぶという
テンションには中々なりづらいところ。
ただ、開催されるイベントに参加予定の皆さんには、
クルマ趣味を中断せざるを得ない状態にある皆さんの分まで
精一杯楽しんでいただきたいな、とも思います。

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CTL代表クライブ・チャプマンからのメッセージが掲載されているのを見つけました。
クライブさん、ありがとう。
一刻も早く、クルマ趣味を謳歌できる毎日が戻ってくることを願ってます。

ところで、そんなCTLのHPを見ていたら、
長年CTLでレストアが続けられていた
1990年型のロータス102ランボルギーニのレストアがついに完了した! 
というニュースが載っていました。

以前、当時ドネリー車を担当していたメカのクリス・ディナージから
「12個もコイルのついた悪夢のようなエンジンだった」
と聞いたことのあるロータス・ランボですが、
個人的にその復活は嬉しい限り。
101をさらに切った貼ったしたような不細工なフォルム、好きです!

というわけで、CTLの裏庭でアイドリングをする姿をどうぞ。


さらに、昨年レストアなったインディカー、ロータス38のレストアを
追った動画も見つけたので、あわせてどうぞ。



うーん、ちょっと元気出てきたかも。
がんばらなくちゃ!







2011.03.29 Tuesday

ESSO RACING TEAM STORY 第22回

 
Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



―― ESSO RACING TEAM STORYは、1970年台の初頭に
東京・青山の片隅で、真剣にF1を夢見て集まった若者たちの情熱の物語です。



【つかみ損ねたデビューウィン

新しくスタートすることになったFJ1300へステップアップすることとなった
ESSO RACING TEAMの1973年シーズンは、5月3日に開催された
JAF グランプリから始まりました。

マシーンは、トヨタから門外不出のワークスエンジン
トヨタ・カローラ用3K-B OHVユニットを搭載したノバ01。
白と赤のイメージカラーで塗られたマシーンは“ESSO EXTRA"と呼ばれ
開幕戦のエントリーリストには、鮒子田寛、米山二郎の2名が登録されていました。

しかし、当時の出走記録には鮒子田さんの“ESSO EXTRA"しか載っていません。
その裏事情を教えてくれたのは、かつてコッパ・ディ小海や
コッパ・デッレ・アウトストリケなどの仕掛人としても知られた
京都在住のエンスージァスト山中信博さんでした。

「中学1年の時、同級生の家に遊びに行ったら、そこに矢吹圭造のエスがあった。
 それを見たら、同級生はそっちのけで、そのクルマを改造している
 彼の兄貴と遊ぶようになってね……。その兄貴が林みのるだったんです」

という山中さんは、以来レースの世界にのめり込み
マクランサ・パニックの製作などを手伝ったあと、解良さんらとともに
創立間もないノバ・エンジニアリングのメカとして現場にいたという経歴の持ち主。

当時の山中(愛称:サンチュウ)さんのことを、解良さんはこう振り返ります。

撮影:前田恵介

「僕の記憶では彼は数ヶ月間、ノバ設立時にいましたよ。
 ただ正式な社員かどうかは山梨さんに聞かないと分かりません。
 FJ1300の時には金子君(後のマキシムカーズ)とサンチュウがコンビを組んで
 晴邦さんの車、風戸君のマーチ(チーフは猪瀬さんで風戸レーシングのスタッフ)
 をサポートした記憶があります」

その山中さんに、ノバ時代の記憶を伺ったところ、こんな証言が寄せられたのです。

「ノバ01といえば、ステアリングシャフトをRSC製のモノを使うことになって
 木村昌夫さん(現 無限)から買ったんですよ。ところがそれが不良品で、
 富士の最初のテストの時、いきなりステアできなくなってクラッシュしてね。
 木村さんが慌てて飛んで来て、責任を感じて自らモノコックのリベットを剥がして
 直そうとしたりして(笑)。それをオケラと一緒になだめて止めたのを覚えてますよ」

そのテストの時にステアリングを握り、クラッシュの憂き目にあったのが、
鮒子田寛さんでした。

撮影:前田恵介

「その通り!!! この時のレースは富士の左回りを使用していて、
 クラッシュした場所はヘアピンの進入。ハイスピードからのハードブレーキングの後、
 ハンドルが切れず、車が回らず、まっすぐにガードレールに突っ込んだ。
 レース前の練習で、米山車も全く同じ場所で突っ込みクラッシュ。
 2台が同じ場所でクラッシュしたので、おかしいと思い
 車の問題だと主張してもオケラは我々の意見を無視した!
 それでレースでは車の修理が間に合わす、1台欠場して私だけが出たんです。
 当時、部品に問題があったという話は知らされず、先日の京都取材の折、
 尾張屋でそばを食べた時に、オケラから部品の問題だったと聞かされた(笑)」

ということで、解良さんに事の真相を伺ってみました。

「解良からお答えします。皆様当時の事ですでに時間も経過し、
 誰も怪我をしなくて良かったので、この場を借りて白状します。
 ステアリング・ギアボックスは、当時のRSC製で
    木村さんが1台目のクラッシュの直後、日仏自動車
 (ノバのファクトリーが完成するまでは日仏自動車内で作業)を訪ねてきましたが
 私としては確信は持てませんでした。しかし2台目で確信が持てました。
 原因はラックの回り留めが機能していなくて、ギアが引っかかった為に
 ステアリング操作不能になったのです。後のレースは対策をしました。
 怖かったでしょうね?」

これがデビュー戦ながら、1カー・エントリーとなってしまった
JAFグランプリの真相だったのです。

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さて、5月3日に決勝が行われたJAF グランプリ。
初開催となるFJ1300レースには、22台ものエントリーが集まりました。
その中でポールポジションを獲得したのは、谷口芳浩の竹茗堂ベルコ。
たった1台の出走となったESSO EXTRAの鮒子田車は
11番グリッドからのスタートとなります。

しかし迎えた決勝レース。
11番グリッドからスタートした鮒子田ESSO EXTRAは
序盤から林将一のハヤシ708、阪口顕のUCC(ハヤシ)708、
中野雅晴のヒーローズ KS-03、谷口芳浩、松本鋼一のべルコ98Aと
トップグループを形成。
その後レースは、林将一と、鮒子田寛の一騎打ちの形相を見せるようになります。

(写真提供:Racing Retro 鮒子田車の背後に迫るのは、谷口べルコ)

「当時のトヨタエンジン(綱島チューン)は、高回転域はそれなりに良かったけど、
 中低回転域のトルクは全くない特性でした。
 だから、左回りの最初のヘアピン、最終のヘアピンの立ち上がりでは、
 2速(1速を使うこともあった)でも、息つきをしながら
 ようやく加速するという感じでした。
 レース中、林将一のハヤシとトップ争いをしていたのだけど、
 1コーナー、ヘアピンのブレーキング、300R、100R等は
    こちらがダントツに速いのだけど、ヘアピンの立ち上がり等では
    息つきで差を詰められる(或いは、差を広げられる)状況だった。

 そのレース中、シフトロッドの先端でレバーを締め上げているナットが緩み、
 シフトが3速4速しかできなくなってしまった。
 と云う事は、2つあるヘアピンを3速で回ることになる。
 低速トルクがなくて、それでなくても苦しいヘアピンを3速で回るのだから大変、
 パツ、パツ、ボソボソで加速せず立ち上がりで簡単に林将一に抜かれてしまう。
 それを、1コーナーから300R、へアピンのブレーキングで抜き返す。
 この争いがレース最後まで続いたのだが、
 結局、直線では抜き返せずじまいで3位フィニッシュ。

 終わってから、オケラがなんて言ったと思う! 
 走りながら手で締めれば良かったのにだって!! 
 そんなことは走りながら試したけど、閉まるものではない! 
 と云う事で、またまた、オケラの武勇伝でした」

と、鮒子田さんが述懐するように、林将一のハヤシ708と
死闘を繰り広げたESSO EXTRAは、ファイナルラップで力つき
林、阪口のハヤシ勢にかわされ、3位でフィニッシュ。
デビューウィンを寸前で逃してしまったのです。
その時のことは、マネージャーだった尾崎さんも良く覚えていると言います。



「あ、これは勝った! と確信していたら、最後の最後で
 フシヤンのクルマが加速しないんです。これは悔しかったですね。
 3速、4速しか使えずタイトコーナーでは半クラッチを駆使して走っていたので
 ゴールした後のマシーンから異様な熱気が立ちこめ、クラッチフェーシングの
 焼ける独特な匂いがしていたのを覚えていますよ。
 3位には入ったけれど、僕らは勝ちに来ていたわけですから
 誰もが無言で、そそくさと片付けをはじめてね。
 もうピットの中は悔しさで溢れていましたね。
 フシヤンなんか、近づくのも憚られるほどの殺気が漂っていました」

もちろん、その悔しさは解良さんも同じでした。

「緩んだ要因はシフトシャフトのねじ山が荒いことでした。
 それで緩みやすかったのです。対策として後に
 シャフト部にロールピンを打ち込みました。
 勝ちを逃した悔しさで、ついフシヤンに悪たれを突いた記憶は在ります。
(反省はしていませんが)」
(つづく)

2011.03.28 Monday

今度は1970年全日本鈴鹿12時間レース!




Motor Press
(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



おはようございます。
週末ズル休み(?)したモータープレスですが
今週もどうぞよろしくお願いします。

ものすごいアクセスいただきました。
ありがとうございます。
皆さん、この頃の動画には飢えてますよねぇ。

で、そんな貴重な動画をご提供いただいたtamagoyaさんから
追加のコメントが……。

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今日は、チューブの映像を紹介してくださったみたいで、
しかも詳しい解説まで付けていただいてありがとうございました。
さすがFJの方もよくご存知で。

あれで覚えているのは、最初に成田さんと高田忠政さんの
ベルコ96Aが飛び出して先行してたのだけど、
スタートで出遅れた高武富久美さんのワールドAC9が猛烈に追い上げてきて、
映像にも残っていますが第1〜3複合コーナーのおわりで高田さんをパス、
成田さんにどんどん追いついていって猛烈なトップ争いをしていたということ、かな。
そうそう、堀音登吉さんのアローS1、僕も初めて見たのでした。
マクランサ・パニックの事は、後に雑誌で知りました。
もっとちゃんと見ておけばよかった……。

メインレースの方だと、マーク鵺X-Rもなんですが、
ドライバーの鈴木誠一さん。
あまり鈴鹿には来なかった、ストックカー・レースの大御所に注目していました。

雑誌の写真でしか見たことありませんでしたが、
タイニー・ランドとのデッドヒートに興奮したなあ。
それにあのカラーリング!
「マルゼンテクニカ」カラーにゼッケン84!!
当時でも野暮ったいデザインでしたが、アレに私は妙に惹かれました。
ところが当日は普通の赤茶けた240Z……。
マルゼンカラーは「東名Z SPL」に、あの「耐久男」西野弘美さんの運転でした。
確か、当時のプログラムには桑島さんのフェアレディZブラックスペシャルとともに
排気量3000ccと記載されてた筈。
増田万三さんも、西野さんとともにフェアレディ使いで有名でしたねえ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

いやーさすが!
現場で直に見てらした方は違います。
そうか、誠一さんの鈴鹿レース歴って少ないんですね。

ということで、今日はtamagoyaさん秘蔵の
1970年全日本鈴鹿12時間レースの動画をどうぞ。


これも貴重な映像です。

鈴鹿耐久シリーズの目玉でもあったこのレース、
予選は北野元/砂子義一組のZ432がポール。
田中弘/矢吹圭造のニットラAC7が2位に食い込み、
その後は高橋国光/都平健二組、横山逹/歳森康師組のワークスGT-R、
黒澤元治/長谷見昌弘組のダットサン1600SSSRとワークス日産勢が
上位を固めていました。

そして、1970年8月23日の9:30にスタートしたレースでは
まず高武富久美/木倉義文組のホンダ1300クーペがホールショット。

しかし、序盤で240Z&GT−Rのワークス日産勢がトップを独占、
その後にロータリー勢が並ぶというレース展開となります。

が、給油が始まりだすと、燃費に優れるニットラAC7が首位を奪還。
最終的に236周を走りきったAC7が優勝したのでした。
(その一方、レース後半にホンダS800に乗る秋山喜芳の死亡事故があって
1時間15分レースが中断されるといったアクシデントもありました)

そんな鈴鹿12時間の模様を収めたtamagoyaさんの動画は
相変わらず素晴らしい! のひとこと。
個人的には、トータス306の走行シーンと
昔の鈴鹿の遊園地の様子が映っていたのに感動しました!

実はtamagoyaさん、コレ以外にもたーくさん、貴重な動画をお持ちなのです。
これらも是非ご紹介したいのですが、なんか纏めてDVDとかで
販売してもいいんじゃないか? と思うほど。
というわけで、引き続きモータープレスでは
こうした貴重な映像、画像を募集しております。


※モータープレスでは、ESSO RACING TEAMはもとより
往時のレースシーンにまつわる皆様からの情報をお待ちしております。
コメント欄に載せたくないもの、または画像を添付したい
といった情報については、今後 

motorpress.jp@gmail.com

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可能性もありますが、どうぞよろしくお願いします。


2011.03.25 Friday

超貴重! 1971年鈴鹿グレート20レースの動画が!

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



このブログの最後に、往時のモータースポーツにまつわる
写真や情報をお持ちの方……と呼びかけをさせていただいておりますが、
すんごいタレコミ? をいただいたのでご紹介させていただきます。

それは、な、なんと
1971年の鈴鹿グレート20レースの動画!
お送りいただいたのは、この8ミリフィルムの撮影者であるtamagoyaさん。

実は数年前、tamagoyaさんのHPを偶然見つけ、そこにアップされていた
動画を見て、衝撃のあまり思わずイスからずり落ちた経験があるのですが
その幻の動画をふたたび見る事ができるなんて!

……ということで、まずはtamagoyaさんから頂いたメールから。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
突然失礼いたします。
これらの動画は、その昔、親父が8ミリフィルムで撮っていたものです。
もちろん音声などありませんから、音楽だけ後付けです。

三栄書房さんの「日本の名レース」シリーズとか
「オートスポーツ・ヒストリック」などを読んでいて、
実家にも当時のASが残してあるので、ホンダR1300→ワールドAC7、
ニットラAC7の流れを懐かしく思い出して、
そういや、最後の12時間には映っていたなあと思い出して、
拙い映像ですが連絡させていただきました。

今はただの自営業マンですが、この頃はしょっちゅう鈴鹿へ
無理やり親父に連れて行かせて(もちろん親父も車好きだったんですが)、
目の前をすっ飛んでいくレーシングカーを、目を皿のようにして見ていました。

多分貴重なモノだとは思うのですが、惜しいことに音声が無い……。
グレート20ドライバーズ・レースのでも、
個人的にローラやシェブロンではなく、マーク鵺X-Rばかり見ていた覚えがあります。
聞き慣れた甲高いエキゾーストではなくて、ターボ特有のヒューンという、
くぐもった音に「おおっ!」と感動しましたわ。
他にも西コースのレースのや、70年500キロや72〜73年頃の1000キロのやらが
あるのですが、不精者で、まだアップしておりません……。

しばらく、鈴鹿詣でもしておりませんが、今年はWTCCが来るとのことで、
久しぶりに行ってみようかなと思っております。

訳の分からない文で失礼いたしました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

なるほどー、そういう経緯で撮影されたものなのですね。
いやースゴい。こういうモノを撮影して
ちゃんと保管されていたなんて神です!

さ、さ、あまり焦らすのもアレなんで、早速ご覧頂きましょう!





すごいのは、メインレースだけでなくFJチャンピオンレースも
プラクティスからしっかり押さえられていること。

このFJで優勝した成田修のべルコ96A(ゼッケン10)、
堀音登吉のアローS1(ゼッケン8)、村田邦雄のべルコ96A(ゼッケン21)、
関本潔のフロンテ・アウグスタ(ゼッケン35)、吉田マサオのアローS1(ゼッケン19)
などなど、なかなか動画では見ることのできないFJが写っています。

ちなみにこのレースには、林みのる製作のマクランサ・パニック
大坪善男(!)のドライブで唯一の決勝進出を果たしています。
(残念ながら写っておりませんが)
ということは、完成間際に林さんに拉致? されて完成を手伝った
解良さんも現場にいらしたハズです。
さらに米山二郎さんもティアックAC5(ゼッケン3)で出場してたりします。

そしてメインレースの方もすごい。
活動期間の短かったターボカー、トヨタ・マークII XRがかっちり映ってるのは超貴重。
細谷四方洋(ゼッケン12)、久木留博之(ゼッケン14)、蟹江光正(ゼッケン15)のほか
このMPでもお馴染み、見崎清志(ゼッケン16)、高橋晴邦(ゼッケン17)が出場。
“ヒューン”というターボサウンドは、当時新鮮だったのですね(音がないのが残念!)。

さらに芝辻章二 SHIBA 2BS(ゼッケン20)、武智俊憲 カペラ(ゼッケン18)
鈴木誠一 240Z(ゼッケン26)、桑島正美 240Z(ゼッケン11)、
高橋国光&北野元のワークス240Zなどの姿も。

もちろん、このレースの主役だった高原敬武ローラT212(ゼッケン7)
田中弘 シェブロンB19(ゼッケン6)、片山義美 ロータリー7(ゼッケン3)もバッチリ。
スタートシーンで一瞬出遅れるものの、すぐに首位を取り戻す高原ローラ、
蟹江マークIIと都平GT-Rの1コーナーでのアクシデントなど、
レースのハイライトもちゃんと撮影されているのもポイントが高いです。

あと個人的に貴重だと思ったのが、1971年当時の鈴鹿サーキットの風景が
記録されている事。こういうモノって中々残らないですから、
資料的価値も高いと思います。


この日本の名レース100選(三栄書房刊)も名著ですが
これと映像を合わせてみると、やっぱ説得力が違います。
tamagoyaさん、ありがとうございました。

いやー、興奮してしまった。
次回はもうひとつの動画、1970年の鈴鹿12時間をご紹介しましょう!



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2011.03.24 Thursday

ESSO RACING TEAM STORY 第21回

 
Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



―― ESSO RACING TEAM STORYは、1970年台の初頭に
東京・青山の片隅で、真剣にF1を夢見て集まった若者たちの情熱の物語です。



【ESSO RACING TEAMを撮り続けた男

1973年、それまでティームマネージャーである
尾崎さんが一手に引き受けていたESSO RACING TEAMの
PR活動に大きな変化が訪れます。

まずひとつ目は、週刊プレイボーイ、平凡パンチ誌上で募集し
オーデョションが行われたESSOクィーンの募集。
もうひとつが、オフィシャルカメラマンをはじめとする
本格的なPRティームが、ESSO宣伝課に作られたことでした。

このPRティームで1年間ESSO RACING TEAMに帯同し、
撮影し続けたのが、カメラマンの猪口勝男さんでした。


現在は独立され、広告&イベントプロモーションを手がける
ご自身のスタジオ、INOX'sの代表を務められている猪口さんですが
当時は、広告全般を扱う代理店であるマップルに所属する
カメラマン兼プロデューサーでした。

撮影:猪口勝男/写真提供:解良喜久雄

そう猪口さんは、このESSO RACING TEAMの物語を調べていく
きっかけとなったティームの集合写真の左端に写っている人物、
そしてこのポージングをアレンジした張本人でもあるのです。

「そもそもは、エッソ宣伝課の阿部部長から
 ウチの会社に打診があったのがきっかけです。
 エッソ側としては、1年間レースを戦った経験をもとに
 本格的なマーケティングのためにレースを使いたかったんですよ。
 当時は企業でレーシング・ティームを持つなんてないですからね。
 それで、ちゃんと写真を撮ろう、そしてしっかりPRの材料に使おうって
 ことになったんだと思います。
 実は、あの丸善石油の小川ローザの
 “Oh! モウレツ” ってコマーシャルのスチール撮影を担当したのは僕だったんですが、
 あのCMは、結局イメージだけで何も残らなかった。
 だから僕としても、
 “広告は一般に広く認めさせるためのもの。
 エンドユーザーの共感意識を狙っていかないとだめだ”
 という思いがありましたから、世界のエッソで、
 こういう活動ができるのはいいじゃないか? って動き始めたんです。
 ですから、そのために福島から静岡まで
 20ヶ所くらいのSSを市場調査なんかもしましたよ

とはいえ、それまで広告写真を手がけてきた猪口さんにとって
クルマの撮影、しかもレースの撮影というのは初めての経験。
そのために、富士グランチャンの開幕戦に出かけていき
走るクルマの撮影のテストも敢行したのだといいます。

「僕の手帳によると、1973年4月10日レーシングカー完成。
 4月14〜17日に富士で初撮影とありますね。
 でも、とにかく最初は近寄りがたい雰囲気ありました。
 山梨さんなんて怖かったですもん。
 最初、メカとレーサーの皆さんから文句も言われた記憶がありますよ。
 それをESSO阿部部長が“彼らは報道じゃなくてESSOのオフィシャルだ”
 って言ってくれて、ようやく撮影ができたんじゃないかな?
 そりゃあ、今まで専属の撮影部隊をもつティームなんてなかったですからね。
 スタッフの皆さんにとっては、
 “忙しいのになんでウチばっか、パチパチ撮りやがって”
 って気持ちになりますよね。
 しかも仕事が終わると女の子と仲良くしてるわって(笑)。
 そんな中で最初に仲良くしてくれたのが晴邦さん。
 鮒子田さんは最初近寄り難かったですね。インパクトがありました。
 きっとレースに集中していたんだと思います。
 一方晴邦さんとは友達感覚でしたね。一緒にお茶したりとか。
 あと、解良さんは良くしてくれた印象がありますね。
 もちろん、後で皆さんと仲良くなりましたけど」

でも、そんな異業種の交流があったからこそ
ESSO RACING TEAMのプロモーションに
新たなアイディアが沸いたと猪口さんは言います。

「思い出した!  僕らですら近寄りがたいんだから、
 もっと一般の人も近寄りがたいんじゃないかと思ったんです。
 確か最初の頃はレースを撮影にいって、その間にポスター作ったんですよ。
 それをSSに配ってお客さんにアピールしていたわけです。
 だから最初はレースのクルマばかり撮っていたのですが
 暫くしてからクルマだけじゃなく、メカニックも撮ったんです。
 走るだけじゃなく、裏方の汗と涙とそういうモノも必要だと思って。
 それでカレンダーを作ったんですね。
 その時は、なんだかんだいって、ティームに情が入っていた
 という理由もありました。
 カレンダーは僕の発案で作ったものなのですが
 レースというドキュメントをアート的に表現したものなんです。
 そういうことをしたのはESSOが初めてなんです。オンリーワンですよ

猪口さんによると、当時ESSO RACING TEAMのPRに関しては
ティーム側は尾崎さん、そしてそれ以外のプロモーションは猪口さんに
ほぼ全権が任されていたといいます。
しかし、その自由な社風、そして広告畑を歩いてきた猪口さんならではの
斬新なアイディア、さらにESSOの世界的なネームバリューが
日本におけるレースを使ったPR活動の新たな地平を
切り開いていったともいえるのです。

「あの当時は僕らも世界のESSOの仕事なんだから
 報道のカメラではできない良いものを撮ってやろう! という気持ちがありました。
 ESSOの看板を背負っているってプライドがありました。
 当時、僕らはデザイナーを入れて4〜5人の撮影部隊でサーキットに来ていたんです。
 というのも、“人を共感させるには口じゃなく現場”という想いが僕の中にあったから。
 だからコピーを考える人間も連れていったのです。
 もちろん広告ですから、もちろん僕らもエッソのウェア着て、
 撮影車もESSOカラーにしてね。
 で、ある時レースのスタートシーンを撮ろうというときに
 ただ撮ってもつまんないから、ピットレーンの高い位置から
 俯瞰で撮影したいと思ったんですが、オフィシャルから脚立は使っちゃいけないと。
 そこで考えて、脚立がダメならと、アシスタントに肩車させたことがあります(笑)。
 そういう意味でも専属でやってるプライドはありましたね。
 阿部部長は“目立って良いな”って笑ってましたけど(笑)。
 あと、レンズから何から良いモノは率先して使っていました。
 当時としては先見のあるコダックのフィルムとかね。
 そういえば、いつだか雨の中、骨まで雨がしみる中で写真を撮ったこともあります。
 とにかく酷い状況だったので、他の報道カメラマンなんていなかったんですが
 でも、僕は敢えてそういう状況だから撮りたかった。
 その苦労の甲斐あってタイヤが5mくらい雨を跳ね上げる
 良い写真が撮れたのを覚えています。ESSOの方も、
 “ESSOがレースを諦めない”感じが出て良いと共感してくれました。
 その写真はカレンダーにも大きく使って
 それは一般ユーザーの皆さんにも訴えることができたと思います」
 
そうして猪口さんたちのPR班が、熱心に仕事をしていくのにあわせるかのように
ティームの一体感がどんどん深まっていったと猪口さんは述懐します。

撮影:猪口勝男/写真提供:高津信子 

「この富士での写真は、右から撮影スタッフ、東原、3番目が猪口、
 5番目が江平、6番目撮影スタッフ氏名不明、7番目和泉、8番目エッソ嶋田、
 10番目エッソ阿部。12番目晴邦、14番目鮒子田、17番目エッソ高津、
 18番目尾崎、そして一番左エッソ田畑。いずれも僕のアシスタントに撮らせた写真です。
 以前ブログに載っていたラインダンスの写真以外にも、
 こうした写真を僕はよく撮るんです。
 皆の一体感を示せるし、撮る時は恥ずかしがるけれど、後で見ると
 こういう写真って良いんですよ。
 あの鈴鹿のラインダンスも僕がポージングしてアシスタントに撮らせたものです。
 まわりのティームにとってはジェラシーだったでしょうね(笑)」

こうした一連のPR活動と平行して
猪口さんは、これまでとは違うPRの方法を模索していました。
それは、レース好き、クルマ好きだけに訴えかける従来の方法ではなく
広く一般にESSOブランドを周知させるためのプロモーションでした。

「これは1974年になってからですが
 4月に横浜の松坂屋でESSO RECINGのPRイベントとして
 ”ESSOヤングフェスティバル”を3日間開催したんです。
 いち企業がレースのイベントを、デパートの1階で催したのは、ESSOが初めてでした。
 デパート側も初のレーシングイベントに勝負を掛けて、1階のメインコーナーである
 化粧品売り場近くを使わせてくれたので、特に外資系化粧品メーカーの女性から、
 かなり興味を持たれたのを、覚えています。
 そこで写真やレースカーを展示しながら、様々な販促品を販売したんです。
 これは非常に評判を呼びました。
 それを受け5月に東京のパルコで、レース活動の写真パネルの展示会を開催。
 同じ5月に“ESSOヤングフェスティバル”を福島県・郡山で開催。
 11月には“ESSOレーシングカーショー”とタイトルを変えて名古屋で開催しています。
 もし、ESSO RACING TEAMの活動が74年以降も続いていたら
 もし尾崎さんたちともっと深くコミュニケーションを取れていたら
 もっともっと、色んなことができたかもしれませんね」

そう、その経緯はまた後日詳しく紹介しますが、
このように歯車が上手くまわりはじめた
ESSO RACING TEAMの活動は、1973年いっぱいで終了してしまいます。
しかし、今から40年近く前にESSO RACING TEAMが手探りの中から
確立していったレース活動を媒介したプロモーションというスタイルが
日本の後のレース界に大きな影響を与えたのは間違いありません。

そして、このESSO RACING TEAMとの1年間にわたる活動は
猪口さんにさらなる活躍の場を与えることになるのです。

撮影:猪口勝男/写真提供:尾崎郁夫

「当時ESSOのポスター類は京都にある野崎印刷という会社で刷っていました。
 野崎印刷っていうのは、ポスター印刷では当時トップの会社だったんです。
 世界のESSOの仕事だからって、野崎さんの方も採算度外視でやってくれて
 僕の方も、何回もしつこいくらい校正して良いものができました。
 この写真とはちょっとアングルが違うんですが、ESSO UNIFLOのクルマを
 B全サイズに伸ばして、イメージカラーの青とゴールドの奇麗なポスターを作ったんです。
 これが良い出来でね。野崎印刷さんからも是非フランス国際ポスター展
  “クロードフィールド展”に出展したらどうか、って薦められたんです。
 聞けば前回入賞したのは写真家の立木義浩さんって言うじゃないですか。
 不安だったけれど、ESSO側もOKしてくれたので出展したんです。
 そうしたら、なんと1974年のクロードフィールドで入賞したんですよ!
 その時に改めて思いました。これが名もない日本の企業のポスターなら
 ダメだったんじゃないか? やはり世界のESSOだからこそ目に止まったんじゃないかと。
 でも、僕にとってはすごい自信になりました。
 そういう意味で、僕は報道というのは、レースを記録するものだけれど
 我々はそんなレースをアートに変えたんだ! って自負がありますよ


 
 
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※過去の記事

ESSO RACING TEAM STORY プロローグ1
ESSO RACING TEAM STORY プロローグ2
ESSO RACING TEAM STORY 第1回
ESSO RACING TEAM STORY 第2回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回補足
ESSO RACING TEAM STORY 第4回
ESSO RACING TEAM STORY 第5回
ESSO RACING TEAM STORY 第6回
ESSO RACING TEAM STORY 第7回
ESSO RACING TEAM STORY 第8回
ESSO RACING TEAM STORY 第9回
ESSO RACING TEAM STORY 第10回
ESSO RACING TEAM STORY 第11回
ESSO RACING TEAM STORY 第12回
ESSO RACING TEAM STORY 第13回
ESSO RACING TEAM STORY 第14回
ESSO RACING TEAM STORY 第14回追記
ESSO RACING TEAM STORY 第15回
ESSO RACING TEAM STORY 第16回
ESSO RACING TEAM STORY 第17回
ESSO RACING TEAM STORY 第18回
ESSO RACING TEAM STORY 第19回
ESSO RACING TEAM STORY 第20回


※ブログ右端のカテゴリー欄に
ESSO RACING TEAM STORY を追加しています。
過去の記事はそこからもご覧頂けます。


※モータープレスでは、ESSO RACING TEAMはもとより
往時のレースシーンにまつわる皆様からの情報をお待ちしております。
コメント欄に載せたくないもの、または画像を添付したい
といった情報については、今後 

motorpress.jp@gmail.com

まで、メールにてお寄せください。
基本的に受信専用のアドレスのため早急なお返事ができない
可能性もありますが、どうぞよろしくお願いします。


2011.03.23 Wednesday

ESSO RACING TEAM STORY 第20回

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



―― ESSO RACING TEAM STORYは、1970年台の初頭に
東京・青山の片隅で、真剣にF1を夢見て集まった若者たちの情熱の物語です。



【ファンの目から見た1973年東京レーシングカー・ショー


前回、1973年から開催されることになった新しいフォーミュラカーの
カテゴリー“FJ1300”にステップアップすることになった
ESSO RACING TEAMが、3月に開催された東京レーシングカー・ショーで
新体制のお披露目をした模様をお届けしたところ、
日頃コメントを寄せてくださっているlotus 49 fordさんから
貴重な当時の写真が送られてきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

Motor Press毎日楽しく拝見させていただいております。
ペースが速くていつも書き込みするチャンスを逃してしまっています。

すでに遅いかもしれませんが
1973年の東京レーシングカーショーの写真をお送りいたします。
40年近く前のことなのであまり記憶はありませんが
他の展示(ハヤシレーシングの写真をご参考に)は
ただマシンを置いているのに対してEsso Racing Teamは
見せるための工夫を凝らし垢抜けた展示の様子が分かります。

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ということで、早速送っていただいた写真がコチラ。

(写真提供:Racing Retro

1972年シーズンに活躍したアウグスタMk3と、FJ1300用のノバ01が
一緒に展示されていたのは知っておりましたが、実は2台が一緒に収まった
写真というのは、見る事ができませんでした。貴重です。
確かに下のハヤシ・レーシングに比べると、各ドライバー
(解良喜久雄、鮒子田寛、高橋晴邦、高原敬武の順か?)のパネルやフラッグ、
横断幕などなど、ちゃんとディスプレイされている様子がわかります。

(写真提供:Racing Retro

(写真提供:Racing Retro

そしてお披露目されたてのFJ1300(ノバ01)。

このあたりの経緯を、当時のマネージャーであり
レーシングカー・ショーの事務局も務めてていた尾崎さんに伺ってみると。

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500と1300が2台写っている写真の前に
ドライバーの写真が飾ってあるので、
これらを段取したのは何となく覚えています(MPSで焼いて貰った?)。
 
1300の写真で2人顔が写っているのは、
ブレザーの上からエプロンを掛けていますので、
支店か何かのESSO関係者(R.Q.でもイベントスタッフでもありません)
だと思います。

R.Q.では基本的レースクィーンかイベントスタッフは
Tシャツとショートパンツのスタイルでした。

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しかし、この写真ひとつとっても
1972年の状況から、ESSO RACING TEAMを取り巻く環境が
向上していたのかが伺えます。

ということで、次回はESSO RACING TEAMの活動を
PR面から支えたオフィシャル・フォトグラファーのお話をしたいと思います。

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※過去の記事

ESSO RACING TEAM STORY プロローグ1
ESSO RACING TEAM STORY プロローグ2
ESSO RACING TEAM STORY 第1回
ESSO RACING TEAM STORY 第2回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回補足
ESSO RACING TEAM STORY 第4回
ESSO RACING TEAM STORY 第5回
ESSO RACING TEAM STORY 第6回
ESSO RACING TEAM STORY 第7回
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ESSO RACING TEAM STORY 第9回
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ESSO RACING TEAM STORY 第14回追記
ESSO RACING TEAM STORY 第15回
ESSO RACING TEAM STORY 第16回
ESSO RACING TEAM STORY 第17回
ESSO RACING TEAM STORY 第18回
ESSO RACING TEAM STORY 第19回


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2011.03.22 Tuesday

野口祐子 From Italy―トリノ自動車博物館オープン(2)

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記


3月11日のモータープレスでお送りしたままになっていた
イタリア在住のコーディネーター&ジャーナリストである

実は野口さん自身、11日(!)に成田に帰国して
空港で一晩缶詰状態になったのだそうです。
ご自身も、日本のご家族も無事だということですが
本当に、あの日は色んなことがありました。

さて。今回はそんな野口さんによる(すでに現地ではオープンした)
トリノ自動車博物館プレス発表レポートの2回目をお届けしましょう。

※レポートが書かれたのが3月10日のため、時系列が合っていないのは
ご了承ください。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さて、ここからが私の感想。

(F1の歴史を展示するコーナー)

今年はイタリア建国150周年記念。
首都であったトリノ市ではいろいろな催しが開催される。
その中で最も重要なイヴェントがこの新自動車博物館。
公式オープニングの3月19日には、イタリア大統領を迎えての大きなレセプションがある。
一般公開は翌20日からということ。
今回の見学は飽くまでも、公式の前の内覧会。
しかし……しかし……それにしても……あと10日というのにこの遅れ。
いったいどういうこと?
それにこの状態をジャーナリスト、関係者に見せるというのだから、
ただ、ただ、唖然!これでは返ってマイナスの印象になってしまうのでは?

しかし、辛口の私も納得したのは、私達が持っている自動車博物館のイメージを
全く新しいものにした、ということ。

この衝撃は、実際に訪れてみないと分からない。
博物館に入る前は、通常の発想で、歴代の車がビッシリ並べられているものと思っていた。
整理して並べられていると、車を単体として考えている車好きに取っては
見やすく、覚えやすい。 

車の勉強には最高だ。

ところがこの博物館のコンセプトは車と社会生活。
車と言う個体が時代と共にどう変化して行ったか、
社会生活の中でどういう役割を果たして行ったか……ということだ。
確かに、車は単体の“物”かもしれないが、
しかし単体である車はその時代の社会の中で、
実に的確に時代を表現している“物”なのである。
 

……しかし、私たちが行った時はまだ
車は埃だらけ、内装は未だ未だ進行中。車の説明、背景の説明プレートは皆無。
作業の中のお兄さんやオジサンがバケツやペンキ、工具を持ってウロウロしている。
始めの印象は、劇場、映画の舞台裏に迷い込んでしまったかのよう、
そしてラスベガスにでも来てしまったのか……と思った。

でも、よーく考えてみると、時代の中での車の役目を考えさせてくれる場面が多かった。

第2次世界大戦後の人々の生活には常に車が、“ある時は主役として”、
“ある時はわき役として”登場していた。
車は人々の社会生活に密着していた。なので、車の周りには沢山の愛があった。
 

例えば、イタリア人にとってのFIAT500。
若い頃、500から車人生がスタートした人も少なくない、
この車の中でどのくらいのカップルが初めての愛の告白、
初めてのデートe.t.c.をしただろうか……。
そんな思い出が秘められた車達、しかもその時代の風景、音楽付きの車を見たら、
皆フッと笑みが浮かぶのではないか?
 

このように時代に合わせて、車を選び、その時代の風景を車と絡み合わせ、
1つ1つのシーンが物語になっている。
戦争の時に活躍した車、レジャーで活躍した車、ヒッピーが流行った時に乗りまわした車、
イタリア人は、これらのシーンを見て誰でもが、
自分の過去ともう一度対話をするようなもの。
残念ながら、日本で育った私にはそれが無い。そんなことを考えていると、
去年(?)流行ったオールウエイズ、
昭和の時代……は日本人に同じような感覚を与えてくれたのではないか?
いくつになっても心に残るシーンというのは、誰もが持っているもの。


またトリノは映画の街としても有名、
この映画と車との関わりも詳細に表現されている。
ジャガーEタイプの壁にかかっている唇の形をしたオブジェ。
その中で常に沢山の数の映画の中からのキスシーンを抜粋して放映。


傍にはその頃の時代を反映しているポスターが。


それだけではない。
車のメカニズムコーナー。時代と共に進化して行った様子がよく分かる。


さらに車が出来あがる仕組みを順番に説明するコーナー。


この電車で周って見学か?


また広大な車関係の書籍、写真、資料のライブラリー。
ここは他の図書館とも連携しているので、その場で他の図書館の情報が手に入るとのこと。
バー、レストランも設置されるらしい
(いつになるかは? 10日後には完璧って言ってたけれど)。


この画面を通じて、グローバルな車産業の、過去、現在、未来が分かる。という展示。


それにしても、この工事現場のような見学会。
本当にあと10日で仕上がるのだろうか? と思うのは日本人だから?
大丈夫?の質問に、トリノオリンピック覚えてるだろう?
開催日にちゃんと間に合ったじゃないか、トリノ人の凄さを知らないなぁ〜。
10日もあれば十分……と若い係りの男の子に“心配するな”と笑われた!
 
いつもイタリア人のラストスパートの瞬発的なエネルギーには関心する。
今回もその瞬発力を思う存分発揮して頂きたいものだ。

博物館を出て、想像していた展示と全く違った表現方法だったので、
脳味噌が未だギクシャクとしてスッキリしなかった。
 
人々の生活にいつの間にか不可欠になって行った車。
始めは夢を運んでくれ、そして数々の思い出を一緒に作ってくれた。だから選ぶ時にはいろいろなことを考えた。
今は……燃費、エコ対策が一番かしら……。
 

20日の一般公開日過ぎに、ゆっくりと見学したいっと思った。
でも、20日でもまだまだ完全ではないかも知れない。
やはり、もう少し立ってから出かけた方が良いだろう。 

その時はきっちりともう一度書きますね。


***************
トリノ自動車博物館
URL:http://www.museoauto.it/home/

営業時間 
月曜       10:00−14:00
火曜       14:00−19:00
水曜、木曜、日曜 10:00−19:00
金曜、土曜    10:00−21:00

入場料  8ユーロ
割引き  6ユーロ
学校見学 2.5ユーロ



2011.03.21 Monday

明日からモータープレスを再開します。



Motor Press
(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



3月11日に発生した東北関東大震災で
僕らの住む国は、一夜にして
まったく違う世の中になってしまいました。
報道でもたらされる多くの惨状を見るにつけ、的確な言葉が見当たりません。
亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに
不自由な生活を送らざるを得ない皆さんすべてにお見舞い申し上げます。
1日、1分でも早く、人間の尊厳が保たれた生活が戻る事を願っています。

一方で、僕たちの社会が抱えているジレンマ、課題、色んなモノが
つまびらかになった1週間でもありました。
原発事故、モノ不足、風評、買い占め問題に代表される人々のモラル
政治不全、そしてこの後必ずや起こるであろう経済的な危機……。

今、まず大切なのは被災された人々への救済であることに間違いはありません。
そして一早い被災地の復興。

しかし、時が流れ人々の生活が元に戻りだしたからといって
この国にありがちな
「喉元すぎれば……」
という状況になるのだけは、なんとしても繰り返してはいけません。

我々が同じ過ちを繰り返さないために
そして尊い犠牲に報いるために
全ての物を一度しっかり洗い出して見直すことが必要だと思います。

首都圏の電力供給のために作られた福島の原発。
本当に安全だと今でも思うのなら、
COを出さないクリーンエネルギーだと言い張るなら、
福島を閉炉して、お台場なり新宿御苑なりに建てれば良い。
それができないなら、やっぱ真剣に見直した方が良い。

だって今ぼくの住んでいる川崎市高津区のとなり。
麻生区にも廃炉となった小さな原発が2つありますし
この他にも数炉、研究炉が首都圏にあるんですから。

福島の出来事を対岸の火事だとは思わない事です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

土曜日、ボディサイドに大きく書かれた
“Switch"というロゴを赤いテープで乱雑に隠して
走り去る東京電力の営業の三菱I-mievを見ました。
そういう危機管理(=保身)を僕らは求めていません。
それを見て唖然とするとともに、悲しい気分になりました。

この原発の状況が、よってたかって
東電を魔女狩りすることで解決するなんて思っていません。
でもピンチはチャンス! と思って進む以外に道はないのですよ。

とにかく今の僕らにできることは、
節電、募金、ボランティア、経済活動の復活などなど、
いろいろ沢山ありますが、それに加えて大事なのは
3月11日以降に起きた事を“忘れない”ことです。

この悲しくも貴重な経験を次の世界に生かすことが
僕たちの使命です。



もっともっと言いたい事は山ほどありますが、
僕自身、このモータープレスを再開するか否か
ここ1週間ずっと悩んでいました。
ワンクリック分でも無駄な電力をセーブした方が良いのではないか? と。
たとえ個人HPだとしても、今は有益な情報をひとつでも
多くネット上に流す事の方が良いのではないかと。

……でも、昨晩テレビで見慣れた芸能人の顔を久しぶりに見て
“日常”の有り難さ、素晴らしさを改めて感じました。
また、いつもどおり店を開けている近所の商店街を見て
“いつもどおりの光景”が、どれだけ僕らの心に安心を
与えてくれるのかを身をもって実感しました。

こんなことを言うのは、かいかぶりかもしれませんが
もし、このHPを見てくださっている方が、いつもどおりの
モータープレスを見て、それが少しでも心の平穏に寄与できるのならと思い直し、
明日からまたモータープレスの活動を再開していきたいと思っております。

無論、未だ各種インフラが整わず、節電も叫ばれている状況ですので
今までどおりの毎日更新とはいかないかもしれません。
そんな中ではありますが、状況を見極めつつ
自動車にまつわる極個人的な偏愛日記を
お届けしていければと考えております。


がんばろう! なんて易々しいことは言いません。
でも諦めるのはまだまだ早い。
たくさんの “哀” を 、ひとつでも多くの“喜” に変えていきましょう!

エゴを本当のエコに変えるチャンスは今です!




2011.03.13 Sunday

節電に協力するためモータープレスは1週間お休みします。

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記


地震の被害が広がる中
節電の必要がでてきました。
僕の住む川崎市も日に数度の停電が予定されております。

よって、今週1週間
モータープレスの更新も休止させていただきます。
何事も協力できる事はコツコツとやっていきましょう!



Motor Press 代表 藤原よしお


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