2011.04.30 Saturday

ダブルバンパーVWの持ち主?

 

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 極個人的な自動車偏愛日記 


前回のESSO RACING TEAM STORYで紹介した1枚の写真。

この写真を見た、VW狂の小池さんこと、元カー・マガジン編集部 滝澤隆久さんから
背景のダブルバンパーのVWビートルが気になる! という書き込みが寄せられました。

すると、これまたコメント欄の情報提供でお馴染みのBobさんから
以下のようなお返事が……。

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「小池」さんが注目されていた“ダブルバンパーVW”の持ち主ですが、
富士スピードウェイの職員で、「コース管制長」や「計時委員長」も務めて居られた
津野さんのお車ではないでしょうか。
写真の様子では、平日のスポーツ走行時間帯のAパドック(当時の呼称)の
光景ではないでしょうか。
コントロール・タワー下に一般車輌が駐車出来たのは、
レースが開催されていない平日だけだからです。
40年も昔の話なので不確実なお答えで済みません。
富士スピードウェイ職員の坂本さんに尋ねれば、正確な情報が得られると思います。
但し、お二人とも既に定年退職されている思います。
お二人は、FISCOが「原野」だった頃、それこそ整地の建設現場に居られた方です。
そのVWとNOVA FJ1300の間で、右手にボードを持ち立って居られる方は
「オートスポーツ」の記者さんです。
当時の三栄書房の記者さん達の名詞を見ながら、
この方のお名前を思い出そうとしたのですが、断念しました。
 

とのこと。

ちなみにこの写真が撮影されたのは、ノバのゼッケンから推測するに
高橋晴邦さんのFJ1300デビュー戦となった
1973年6月17日にFISCOで開催された
FJ1300シリーズ第2戦、RQCフォーミュラチャンピオンレースの前後かと思われます。

いやぁ面白い。最近、旧車探偵みたいになってきましたね、モータープレス(苦笑)。

追記:その後、ESSOマネージャーの尾崎さん(左のタイヤ押してる人物)と
鮒子田さんから連絡がありましたが、背後のAS誌の記者は
編集長を務められた「井上寿一」さんでした。



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2011.04.29 Friday

野口祐子 From Italy―もうひとつのランボルギーニ

 


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 極個人的な自動車偏愛日記 



今日は久々に、イタリア・ミラノ在住のジャーナリスト
野口祐子さんからのレポート。
イタリアには、僕らの知らないクルマ以外の“ランボルギーニ”があるそうで……。

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10時にアレッツォ県にある小さな町で用が終わった。
アレッツォ県はフィレンツェより少し南に位置する場所だ。
ミラノまでは約400キロ以上。どうしようか? 
このまま一直線でミラノまで帰るか……それとも?
そこで頭に過ったのが、数年前、ある雑誌の取材で訪れたことがある
“LAMBORGHINI GOLF CLUB”
場所はアレッツォ県があるトスカーナ州の隣の州、ウンブリア州。
目指すはPANICALEという地名。カーナビに目的地を入れると約60キロ。
そこからミラノに帰るとなると120キロ余計に走らなければならないけれど、
またいつこの辺りに来ることができるか?


東北の震災が起こってから、“出来る時に即行動”が、
私の中ではとても重要、と思うようになって来た。
遠いけれど、……行こう!

ナビの設定間違いで。いつまでたっても目的地が出てこなかった……。
有料道路を使わない設定になっていたので、
ずっと下道を走り続けてしまった。
数年前の撮影の時は、まだナビがなかったので、
地図を見ながら細い田舎道を探し回った記憶がある。
今回は遠回りすることになってしまったけれど、
ズムーズに着くだろう。


何となく記憶に残る風景。湖に沿って走り続ける。ドンドン道なりに走って行くと、
何となく、ワイナリーに入ってしまった。(看板がないのだから分からない)
多分、ここがLAMBORGHINIのワイナリーなのだろう。
目の前には広大な敷地が……でもGOLF CLUBは一体どこにあるのだろうか? 
そのまま走り続け、やっと向こうの方にグリーンが見えて来た。
多分、これが探していたLAMBORGHINI GOLF CLUB。
普通GOLF CLUBというと入口に大きな木製のオシャレな看板が立っているけれど……
ここには見当たらなかった。それにしても、1回は訪れたことがあるというのに、
私の記憶力も酷いものだ……。


LAMBORGHINI GOLF CLUBの9ホールはフェルッチョが設計したコースという。
正にLAMBORGHINIという名前が相応しいゴルフ場だ。
ゴルフハウスは小じんまりしている。ここでは彼の車の歴史は余り語られていない。
牛のマークだけポツン、ポツンと見えるだけ。
でも誰もがフェルッチョ・ランボルギーニの伝説は知っている。


※クラブハウスとその内部

皆さんはもうご存じだと思いますが、フェルッチョの最後の妻は、テレーザ。
そしてその娘はパトリッツィア。彼は晩年、妻、娘とここで長い時間を費やしたのです。
ただ、目指すところは車からワインへと方向転換。
彼が亡くなったあと、 このゴルクラブとワイナリフー、
アグリトゥーリズモ(長期滞在型)は、妻テレーザと娘パトリッツィアが経営している。
特にワインの方はパトリッツィアが上に立ち、精力的に動いているという。

※これはゴルフクラブ内にあるアグリトゥーリズモ(長期滞在型)。

夫、父親の名声を大きく宣伝に使うわけでも無く、
自然な形でフェルッチョ・ランボルギーニという人物が開発した土地だと記すだけ。
妻も娘も”今”これから”を大切に生きているのでしょう。
フェルッチョの残したものに、新しい息吹を入れ、前進している。

数年前の雑誌の取材の時に、妻テレーザが白いカウンタックに乗って登場してくれた。
が、もうその車もないそうだ。ランボルギーニという車は無いけれど、
彼女達は立派にフェルッチョの意志を継続している。

 
会社の説明のインフォメーションに娘、パトリッツィアの顔写真が載っていた。
な、なんと! お父さんにそっくり。まなざしが似ているというか……
志が似ているというか……。


父親が車に懸けたように、彼女はワインに懸けているようだ。
父親は車の会社を立ち上げ、世界中から注目を浴び素晴らしい車を作り続け、
伝説を残して行った。
パトリッツアも父の血を受け継いで、世界中から注目を浴びるワインを作るだろう。
彼女を良く知る人は、小さい頃から性格は父親譲りとだったらしい。これからが楽しみだ。

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現在、LAMBORGHINI関係には3つの道がある。

ひとつ目は、SANT' AGATA BOLOGNASEの本社。
LAMBORGHINI家の血は流れていはいないが、
FERRUCCIO LAMBORGHINIの情熱が車を介在として後世に残っている。
この場所で車作りが始まったのだから聖地と言えるでしょう。
(どの年代までの車が、真のLAMBORGHINIの魂が入っているかについては、
いつかお話しましょう)
フォルクスワーゲン社の傘下にフ入ってからは、ドイツの血がドクドクと入っている。

Automobili Lamborghini SPA
Via Modena 12, 40019 Sant'Agata Bolognese (Bo)
tel 0039-051-6817611
www.lamborghini.com




ふたつ目は、息子であるTONINO LAMBORGHINI関連。
DOSSOにある、FERRUCCIO LAMBORGHINIミュージアムは、
“家族の歴史”が感じられる場所。彼の歴史が車と共に表現されている、
温かいミュージアムだ。
そして、ちょっとしたオタクエリアである。
フェルッチョの甥にあたるFABIOが世界中のファンとコンタクトを取り、
LAMBORGHINIの“血”を心を込めて説明している。
また、息子であるTONINOはTONINO LAMBORGHINIというマークで
いろいろな種類の商品を世界に出している。
TONINOとLAMBORGHINI本社のブランド名を巡る裁判は余りにも有名な話。
TONINOの方は、牛のマーク車には付をけられない! のである。
TONINO LAMBORGHINIの商品は、メガネ、洋服、食料、ワイン、
ゴルフ関連グッズ、兎に角、車以外。
LAMBORGHINI とTONINO LAMBORGHINIブランドの違いは、
一般の人にはちょっとややっこしいかもしれない。どちらにも牛が入っているので……。

Ferruccio Lamborghini Museum
Via Statale 342, 44040 Dosso (Ferrara)
tel 0039-051-862628
www.museolamborghini.it




最後3つ目は、今回のこのLAMBORGHINI GOLF CLUB。
ここはフェルッチョが3番目の妻、テレーザと娘のパトリッツィアと晩年住んだ場所で、フェルッチョが新しい仕事に眼を向けた場所だ。
農園ではワインが作られ、その膨大な敷地の中にはゴルフ場、レジデンスも用意されている。ここでもLAMBORGHINIマークを使っている。特にゴルフ用品はLAMBORGHINIの牛マークが入っている。

 
Golf Club Lamborghini
  Localita' Soderi 1
 06064 Panicale (PG)
 tel 0039-075-837582
 www.lamborghinionline.it
 


多分、LAMBORGHINI結成当時は、誰も50年後のブランドの威力などは
考えていなかっただろう。兎に角、目の前にあるエンジンの問題、
ボディの問題、人事の問題などで頭を抱えているうちに、
日常が歯車に組み込まれ前進していったのだろう。
でも、今はLAMBORGHINIという伝説の名前が、何人かの人の手を経て、
いろいろな姿になって世界中のファンに行き渡っている。
版権問題で、いろいろと抗争は続いている
(しかもトニーノ、パトリッツィアの仲が悪さは有名)らしいけれど……
何処もフェルッチョ・ランボルギーニの息吹が入っている。
どれも素敵じゃないですか!


ちょっと疲れたけれど、足を延ばしてフェルッチョの最後の住処に行って良かった。
その場所に立ち、同じ空気を吸うと、フェルッチョが何故ここを選んだか……が
感じられるような気がした。

やっぱり行って良かった……。








2011.04.28 Thursday

宮内エラン=古茶エランなのか?

 

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 極個人的な自動車偏愛日記 



不定期にお送りしている宮内エランの謎
改めてその顛末を説明すると……。

1960年代に東急商事を通じて日本に輸入された“レーシング・エラン”は5台。
そのうちの4台はお馴染みのレーシングモデル26Rなのですが、
1台だけS2/Gr3. 26/5799/1-2 という
見慣れないシャシーナンバーをもったレーシング・エランが輸入されているのです。

そのオーナーが、成蹊大学の学生レーサーとして
第3回、第4回日本GPなどに参戦した宮内隆行さん。

モーターファン オートスポーツ 1967年9月号(三栄書房刊)より
※ちなみに以前謎の5スポークホイールと書いた写真のホイールは、
鈴木誠男さんからダンロップ・ホイールであると教えていただきました。


宮内さんがこのS2/Gr3. 26/5799/1-2でレース活動を行っていたのは
1967年の11月まで。では、その後このエランはどこに行ったのか?
そして26Rではなく、ロータスからGr.3エランとして
送り出されたレーシング・エランとはどんなクルマだったのか?

というのが、この追跡劇のテーマであります。

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この捜索の中で浮上して来たのが、ジャーナリストの鈴木誠男さんによる
「もしかすると、1980年代にTACSで見た古茶エラン=宮内エランかも?」という証言。

ならば直接ご本人に聞いてみよう! ということで、
“古茶エラン”のオーナーである古茶重さんに、
鈴木誠男さん、大内誠さんとともに昨日お会いしてきました。


古茶重さんは、1970年〜74年に三菱ワークスである
CMSC(コルトモータースポーツクラブ)に学生レーサーとして
所属し、国内ラリーに参戦していた経歴の持ち主。
その経緯を古茶さんはこう語ります。

「そもそもはサーキットレースをやりたかったんです。
 でも友人のシャコタンになったブルーバードをみた父親が
 車高を下げたクルマなんてとんでもない! というので
 自分のギャランの車高を上げて乗っていたんです。
 それでダートラとかに出場していたのですが、
 当時のギャランは砂利道で全然走らないんですよ。
 そこで木全さん(三菱ラリーアート総監督の木全巌氏)に相談に行ったら
 “ウチに1台空いてるから乗れ”と。それが始まりでした」

こうしてギャランやランサーでラリー活動をすることになる
古茶さんですが、他のティーム同様、当時のCMSCにも
“三菱車か外車以外に乗ってはならない”というルールがあったのだと言います。

「最初はデボネアを買ったんだけど、これがまた走らなくて(笑)。
 じゃあ、舗装路の練習になるようなクルマということで、
 たまたま買ったのがエランだったのです。確かオートテクニックの個人売買欄で
 見つけたんじゃないかな? 79万円で静岡まで買いにいきましたよ。
 1970年頃のことだったと思います」

そのエランこそが、誠男さんの言う“古茶エラン”なのですが……
ここで古茶さんの口から、意外な真相が語られたのです。

「僕のエランは、宮内さんのではなく
 元 山下光之さんのクルマです。1966年の第3回日本GPに
 出場した後、練習中に転倒して放置されていたのを
 静岡の歯医者さんに譲られたということでした。
 その歯医者さんがしばらく直しながら乗っていたのですが
 直しきれず持て余して売りに出したものだったんです。僕が買った時も
 白いボディにハードトップを付けた、日本GPの時のままでしたよ」

日本の名レース100選 Vol.55(三栄書房刊)より

そう、なんと古茶さんのエランはex宮内車ではなく、第3回日本GPの
グランド・ツーリングカー・レースで山下光之がドライブし、予選4位、決勝4位
(エラン勢の中では最上位)を獲得したシャシーナンバー:26/5254だったのです。

「付いていたハードトップは日本で作ったやつで、作りの粗いものでしたね。
 隙間だらけで酷かったですよ。また色は黒ではなく濃いガンメタでした。
 とにかく手の掛かるクルマで、スターターが回るか?  なんて
 毎日がギャンブルみたいなもんでした。
 当時はパーツもショップもなかったですから。アトランティックに持っていっても
 “このクルマはレース用の車だから何もわからない”とバルブタイミングすら
 教えてもらえませんでした。ピストンをやっつけた時は、深川内燃機で
 ブルーバード1500のピストンを加工して入れてもらったりしましたね」

※今も残る26/5254に付いていたというピストン。

と、26/5254との思いで話を語ってくださった古茶さんですが
その中にとても興味深い証言がありました。

「僕はあのエランは、26Rじゃないかって思ってます。
 というのも、ボンネットやフェンダーがベラベラに薄かったんです。
 エンジンルームを覗き込むたびにボディがミシミシといい苦労しましたし
 田園調布の蓬莱公園横の道路工事中のところでシートの下あたりについていた
 デフ用のエアスクープをこすって落としたことも ありました。
 ほかにもオーバーヒートをしたため、ボンネットを載せただけで走行し、
 246の三軒茶屋でボンネットが空を舞ったりと、いろいろと思い出だらけの車です」

今も2台のエランを所有されている古茶さんだけに
このディテールに関する記憶は見逃せません。

確かに山下エランは、一見ノーマルながらバリバリのワークス・フェラレディに
肉薄する活躍(予選でもワークス勢に割り込み、決勝ではファステストラップを記録)
しているのです。

このことからも、山下エランに何らかのコンペティションパーツが
使われていた可能性は否定できません。
(誤解を恐れずに言うと、レギュレーション上26Rは、
 ホモロゲを取得したコンペパーツを組み込んだ
 “スタンダード・エラン”というスタンスのクルマですからね)

う〜ん、この26/5254が生き残っていれば確認できるのですが……。
いやはや、また謎が深まってまいりました(笑)。

追記:このクルマはしばらく古茶さんが乗ったあと、後輩に譲られ、
その後またすぐにお肉屋さん? のオーナーに売られたのだとか。
つまり現在行方不明とのことです。

ということで、長い間お付き合いくださった古茶さん、大内さん、誠男さん、
本当にありがとうございました。
個人的にはまた後日、古茶さん所有のディーラー物! の
コーティナ・ロータスMk1 S2についても、色々考察していきたいと思っております。
(この個体とは関係ありませんが、当時三菱重工は東急商事を通じて
レーシング・コーティナ! を輸入していますからね)


うーん、やっぱコーティナ良いなぁ……。
ではまた!

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2011.04.27 Wednesday

ESSO RACING TEAM STORY 第25回

 
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極個人的な自動車偏愛日記



―― ESSO RACING TEAM STORYは、1970年台の初頭に
東京・青山の片隅で、真剣にF1を夢見て集まった若者たちの情熱の物語です。



【忘れられない3つの出来事

撮影:猪口勝男

1973年6月のRQCフォーミュラチャンピオンレースで
ESSO RACING TEAMの一員としての活動をはじめた高橋晴邦さん。

この年は、TMSC-Rとしてのトヨタ・ワークスでの活動のほか、
シグマ・オートモーティブの一員として、生沢徹とともに
シグマGC73で富士GCシリーズにも参戦するという
多忙なシーズンを過ごします。

それは、必ず国産車で世界の舞台に挑戦したい! F1に行きたい!
という夢を実現するために必要なステップだったのですが
一方でこれまでのワークス時代とは違う苦労を味わう事にもなります。

「当時はね、アマチュアのドライバーがGCとかF2000に出てて、
 僕らの感覚として技術的にもアマチュアのレースという感じだった。
 ……実態は別にしてもね。
 ワークスはトヨタも日産の連中もみんなそう思っていたと思うね。
 黒澤さんが出て行ってすぐチャンピオンになっちゃうわけだから。
 確かにワークスドライバーって走る機会が多いわけ、
 アマチュアではそこまでできないから、差が出るのは当然なんだけど」

当時の心境を晴邦さんはそう振り返ります。
しかし、いざ自分がプライベート・ティームに身を置くようになると
別の一面が見えて来たと言います。

「ESSO時代で覚えてるのは3つ。
 まずは、鈴鹿の第3コーナーで突っ込んじゃったこと。
 僕はレースも練習も含めてスピンやクラッシュが
 ほとんどなかったからこれは良く覚えてる。

 確か予選を走れず、最後尾からスタートして20周くらいのレースでしたけど
 ドンドン抜いて8周くらいで5位に来ちゃった。
 で、目の前に先頭集団が見えたわけ。
 その直前のレースでは黄色いマーチに長谷見くんが乗って
 ピューッと行っちゃうから追いつけなかった。
 だけど、このレースは長谷見くんの代わりにトッペイちゃん(都平健二)だったから
 見えるわけよ、前にいるのが。失礼だけどトッペイちゃんなら
 抜けるって思って、誰かは忘れたけど前にいたクルマを
 無理矢理第3コーナーで抜こうと思って
 インを突いたら、オーバースピードでそのまま
 ガードレールに突っ込んじゃった。
(注:当時のAS誌には前車のスピンに巻き込まれたという記述もある)

 帰ってきたらオケラにホント、怒られてさ(笑)。
 “なんでまだ半分もレースが残ってるのにあんなに無理するんだって!”
 勝てるレースだったのに、と、それは覚えてる」

そう振り返るのは1973年8月11日〜12日にかけて鈴鹿サーキットで行われた
鈴鹿グレート20ドライバーズレースでのこと。

初戦のRQCフォーミュラで6位入賞、そして6月30日に行われた
’73日本オールスターレース(富士スピードウェイ)では予選3位を獲得するも
決勝では6位入賞(優勝は真田睦明 日興エージェント・べルコ)と、
イマイチ波に乗れていない事への焦りがあったのでしょうか?
このシーズン、唯一勝てるチャンスのあったレースを
晴邦さんは自らのミスで落としてしまったのです。
ちなみにこのレースの優勝は都平KE ミノルタ・マーチ。
2位入賞は、ティームメイトのエッソ・ユニフロを駆る鮒子田さんでした。



「他に覚えているのは、どのレースか忘れたけど、トップを走ってたの。
 で、あと数周で勝てるって時にストレートでバーストしたんだよ。
 その頃のBSのバイアスタイヤは開発途上でね
 小平研究所の吉田さんってエンジニアが色々とトライするのだけど
 今一信頼性がなかったね。
 完全に剥離バーストしてリタイアしちゃった。

 もうひとつは、シーズン最初の頃だと思うけど、
 レース中にパンクしたからコトコトコトコトゆっくりとね、
 ピットに走って戻ってきた。サーキットって見えないところもあるから、
 ティームが心配すると思ってね。

 なんとかピットまで戻ってきたら、オケラがいきなり僕のシートベルトの
 バックルをガチャーンと外してグーって僕を引っ張りだして、
 “なんだよー! まったく”とか怒ってるわけ。
 こっちも何怒ってんだよって言ったら、
 “もうレースに戻れないってわかってるのに、こんなに走ってきたら
 ホイールがダメになっちゃうじゃないか! もう終わりー! ”って。
 バカヤロー、俺はお前らが心配すると思って戻ってきてやったのに!
 って言ったら
 “だからワークスドライバーは嫌いなんだ!” って(笑)。
 “ホイールが1個パーになっちゃった”って怒ってるの。

 こういう時は、ワークスだとホイール云々より何とかして
 ピットまで戻るように言われていたからね。
 それがワークスとの違いなんだろうけど、当時は俺もカーッとなんてね(笑)。
 オケラと僕は同じ年だから、頭に来てしばらく口きかなかったもんな。

 鮒子田はね、性格的に温和だから、そういうことが起きても
 “オケラがまた癇癪おこした”なんて、冷静な態度なんだけど、
 僕の場合はそうじゃないから、同じように怒っちゃうわけ。
 なんだこのやろーって。それが面白い。でもお互いには
 分かり合ってるわけよ。
 仲はいいから。年が同じってこともあるかもね」

 
この年、晴邦さんがなかなか好成績を挙げられない原因には、
常勝サニーエンジンに対して非力なカローラエンジンなど、
様々な要因があったのは事実です。
しかし、晴邦さんは“そういうことは言い訳だけど”と
前置きをした上でこう続けます。

「まぁとにかくプライベーターはワークスの時とは、もう全然違ったね。
 それはシグマも同じ。1年やってみてコレじゃあル・マンには勝てないし
 F1にも行けないって痛感した。それに時同じく、
 トヨタ自動車のレース界撤退が決まり、僕もレースを辞めようと決めたんだ。

 辞めると言ったら、いろんなとこがきたよ。酒井(正)君も来たし。
 ただ日本でずっとやる気はなかったのと、仲間もいっぱい死んだしね。
 それに子供が生まれたというのもあった。
 あとオヤジと30歳までで辞めるって約束もしていたし……。

    いまこうして振り返ると、例えば鮒子田とか館とか長谷見とか、
 彼らほどクルマが好きじゃなかったのかもと思うよね。
 僕は勝負事が好きなんだけど、彼らは本当にクルマが好きだからね。
 だからパッと辞められたのかもしれない。
 ル・マンだって留学先のアメリカから合流したくらいで
 気持ち的には完全に区切りが付いていたから 
 あんまり印象に残っていないんだよね。

 こうして振り返ると僕の現役生活って74〜75年のル・マンを入れても
 たかだか10年くらいでしょ。でも後になって国さんに、
 “晴邦君ってそんなに少ししかやってなかったんだーっ、
 それにしては存在感あるなー”って言われたのは嬉しかった(笑)」

(つづく)

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※過去の記事

ESSO RACING TEAM STORY プロローグ1
ESSO RACING TEAM STORY プロローグ2
ESSO RACING TEAM STORY 第1回
ESSO RACING TEAM STORY 第2回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回補足
ESSO RACING TEAM STORY 第4回
ESSO RACING TEAM STORY 第5回
ESSO RACING TEAM STORY 第6回
ESSO RACING TEAM STORY 第7回
ESSO RACING TEAM STORY 第8回
ESSO RACING TEAM STORY 第9回
ESSO RACING TEAM STORY 第10回
ESSO RACING TEAM STORY 第11回
ESSO RACING TEAM STORY 第12回
ESSO RACING TEAM STORY 第13回
ESSO RACING TEAM STORY 第14回
ESSO RACING TEAM STORY 第14回追記
ESSO RACING TEAM STORY 第15回
ESSO RACING TEAM STORY 第16回
ESSO RACING TEAM STORY 第17回
ESSO RACING TEAM STORY 第18回
ESSO RACING TEAM STORY 第19回
ESSO RACING TEAM STORY 第20回
ESSO RACING TEAM STORY 第21回
ESSO RACING TEAM STORY 第22回
ESSO RACING TEAM STORY 第23回
ESSO RACING TEAM STORY 第24回

※ブログ右端のカテゴリー欄に
ESSO RACING TEAM STORY を追加しています。
過去の記事はそこからもご覧頂けます。


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2011.04.26 Tuesday

HTCC タケノコ ミーティングの巻

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記


前日の荒天から一転、
快晴に恵まれた日曜日のこと。

ホンダ ツイン カム クラブ(HTCC)の皆さんのお誘いで
同クラブの杉田会長宅で行われた
“タケノコ ミーティング”にお邪魔してきました。


実は杉田さんのお宅は我が家からほど近くの某所。
以前から、遊びにいかせてください! と行って来たものの中々実現せず
今回ようやくその念願を果たせたのでした。

そして会場にはお馴染みHTCCの皆さんが。
この集合写真、壮観であります。


このブログでもお馴染み、エスロクレーサーさんは
これまた最近各メディアに露出中のコニリオに乗って自走で登場!
気合いはいってますっ!

あと、S500の須田さんご夫妻や、HTCC事務局さん
ロータス研究でお世話になってる鈴木さん、
エリート乗りでもある秋元さんなどなど
久々に皆さんにお会いできて、到着早々
ニュルで勝った生沢S800は何処へ? など濃ゆ〜い話で盛り上がったりして(笑)。


でも今日の目的はそういう話ではなく、杉田さん宅の裏山でのタケノコ掘り。
R800さんに道具をお借りして、杉田さんの指導を仰ぎつつ
生まれて初のタケノコ掘りに挑戦! 日頃の運動不足を悔やみつつも
なんとか大物、小物合わせて7個ほどを収穫。いやー楽しい。

そしてお昼からはBBQ大会。美味しゅうございました。


ま、一番楽しんでいたのは、
「マクランサに乗った唯一?の幼稚園児」の
この人でしょうねぇ。もうハンドル握ったら目の色変わっちゃうし。
家に帰って来てから、「まくらんさ〜」 なんて叫んでるし。

ふーん、パパなんかマクランサ・パニック運転した事あんだぞ!
なんて張り合ってみたりして……悔しい〜っ!


ちなみにパパ的には、こっちのブツに興味津々です。
LOTUS 41/19。
杉田さん、今度じっくり見せてくださいね。
このクルマの素性については、またいつか。
もうこうなったら、日本にいるレーシング・ロータスの素性を
片っ端から調べる勢いです。


ということで、一昨晩は旬の山の幸で賑やかな食卓となりました。
う〜ん幸せ ♥

ではまた。



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2011.04.25 Monday

ESSO RACING TEAM STORY 第24回

 


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東京・青山の片隅で、真剣にF1を夢見て集まった若者たちの情熱の物語です。



【トヨタのプリンスの加入】

新たに始まったFJ1300の開幕戦で、優勝寸前! の3位という
活躍をみせたESSO RACING TEAM。

6月17日に富士スピードウェイで行われる第2戦
RQCフォーミュラチャンピオンレースを前に
ティームに強力なメンバーが加入することになります。

それが当時のトヨタワークス、TMSC-Rの若きエースである
高橋晴邦さんの加入でした。
晴邦さんといえば、1966年法政大学工学部在籍中に
フェアレディ1500で船橋ゴールデンビーチトロフィーにデビュー。
翌年TMSCのクラブ員となり、その活躍ぶりを評価され
1969年にトヨタ自販とワークスドライバー契約。
その年のJAF GPでは、デビュー戦のGT-Rの優勝を阻止したことが
進路妨害としてペナルティを課せられたことで話題となりました。

特に1971年以降は連戦連勝の活躍ぶりをみせ
同年に発足したTMSC−Rのエースとして、
名実共にトヨタワークスの顔となっていました。

そんな晴邦さんが、1972年の日本オールスターレースでのFL500に続き
ESSO RACING TEAMのシートに収まる事になったのです。



「ESSOをドライブすることになったのは、山梨信ちゃんから
 オファーがあったからだと思う。それで僕がトヨタに交渉して乗れることに
  なったのです。少なくともトヨタがOKしない限り、他のクルマには乗れなかったからね」

では、なぜトヨタ・ワークスのエースという立場にあった
晴邦さんが山梨さんのオファーを受ける気になったのでしょう?

「僕はトヨタ7で世界に行こう! って思っていたのに、
 川合稔さんの事故でそういうレーシングカーを作らないという流れになって
 フラストレーションが溜まっていた。僕の中ではずっと
    “日本のクルマで世界に!”
 という気持ちが強くあったからね。それ以外の選択肢は考えていなかった。

 それに1972年の鈴鹿1000kmで優勝して
 評価もグンと上がって、若手のエースっていわれるようになって
 マシンテストなんかも僕中心で動くようになっていた。
 1973年のトヨタとの契約更改の時に “給料を倍にしてくれ!”って
 会社と交渉したけれど、そうは簡単にいかなかった。
 そんな時、加藤真から一緒にル・マンに行かないか? と誘いがあったので、
 給料以外の条件交渉をして、“トヨタ車以外の国産車に乗るのはダメだけど、
 外国製のマシン&エンジンのものならOK。
 ただしトヨタが参戦しているレースの時は、トヨタを優先する事”
 という条件で契約更改した」

こうして晴邦さんは、1973年に加藤真率いるシグマ・オートモーティブと契約。
同時に生沢徹、黒澤元治、酒井正、高原敬武、風戸裕とともに、
この年から大々的なプロモーションを展開することとなる、
ブリヂストンとの契約も結ぶことになるのです。

「その頃ワークスは自分のところのエンジン以外には乗れなかった。
 GCなんか“アマチュアのレース”って認識だったから、
 ワークスは誰も出てなかったし。
 実際72年までは現役のワークスは誰も出ていない。

 ただちょうどタイミングが良かったのは、
 黒澤さんが日産やめてBSと契約してGCに出るなんてことになったのが
 話題になったりしてね。
 僕もトヨタと前述の契約をして他のティームで乗れる事になった。
 その話を聞いていた見崎も“じゃあ僕も!”ってことで、同じような条件で
 GCに出る事になったはずだよ。

 あの頃の富士1000kmの写真を見ると、
 僕のセリカターボだけノーズに“晴邦ステッカー”貼ってあるだろ? 
 ああいうことも、それなりの立場になるとできたのよ」

さらに、シグマと平行するかたちでESSO RACING TEAMの
FJ1300をドライブすることになった理由を晴邦さんはこう語ります。

「ESSOに乗ったのはね、シグマでル・マンに行くのはもちろんだけど、
 僕の最終目標はF1だったから、フォーミュラの経験を積みたくて、
 信ちゃんの誘いを受けたのだと思う。
 既にF2000あったけど、台数は少ないし、FJ1300の方が
 コンペティティブで、何にもましてノバは国産マシンだった。
 またエンジンはカローラで、スポンサーもトヨタとの繋がりの深い
 ESSOだし。そういう意味でも問題はまったくなかったからね。
 もしかしたら、上の方でそういう話があったのかもしれないけれど」

こうして鮒子田寛、高橋晴邦と、かつてワークス・トヨタで
ティームメイトだった二人が(デビュー年は違うものの、
二人は同じ1946年生まれ)
再び同じティームでタッグを組む事になったのです。

しかし、同じティームであるにも関わらず、鮒子田車はダンロップ
晴邦車はブリヂストンと、それぞれ違う銘柄のタイヤを履いていました。
その訳を晴邦さんはこう説明します。

「僕はBSと契約してたから。そのベースの契約はシグマなんだけどね。
 確か1レースいくら、みたいな使用契約をしましたね。
 でも、トヨタ・ワークスはダンロップがメインだったので、
 トヨタで走る時はダンロップ(笑)。今思うと大らかな時代だったね。
 だから僕のはBS、鮒子田のはダンロップだった」

さて、そんな晴邦さんのFJ1300デビューレースは、
1973年6月17日にFISCOで開催された
FJ1300シリーズ第2戦、RQCフォーミュラチャンピオンレースとなりました。

RQCフォーミュラチャンピオンレース予選にて 撮影:猪口勝男

ところがこのレースにエントリーしたのは晴邦車1台のみ。
その理由は定かではありませんが、晴邦さんはこのレースで6位入賞。
優勝したのは、1台だけぶっちぎりの速さをみせた
長谷見昌弘のKEマーチ・サニーでした。

「彼とは当時、家族ぐるみの付き合いで仲が良かったけど
 レースでは直接のバトルってないんだよね。
 こっちの調子がいいか、向こうの調子がいいかで、直接勝負にならない。
 国さん(高橋国光)や北さん(北野元)とは結構やってるのにね。
 このFJの時もそう。長谷見のマーチだけピューっと行っちゃうから
 直接勝負をしていないんだよ。彼と一度でいいからガチンコ勝負を
 してみたかったと、今でも思いますね」

実質的に初めてのプライベート体制での参戦、
初めての本格的フォーミュラカーのレースという状況にも関わらず
晴邦さんは、すぐに順応して非凡な才能を発揮するようになります。
(つづく)

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※過去の記事

ESSO RACING TEAM STORY プロローグ1
ESSO RACING TEAM STORY プロローグ2
ESSO RACING TEAM STORY 第1回
ESSO RACING TEAM STORY 第2回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回補足
ESSO RACING TEAM STORY 第4回
ESSO RACING TEAM STORY 第5回
ESSO RACING TEAM STORY 第6回
ESSO RACING TEAM STORY 第7回
ESSO RACING TEAM STORY 第8回
ESSO RACING TEAM STORY 第9回
ESSO RACING TEAM STORY 第10回
ESSO RACING TEAM STORY 第11回
ESSO RACING TEAM STORY 第12回
ESSO RACING TEAM STORY 第13回
ESSO RACING TEAM STORY 第14回
ESSO RACING TEAM STORY 第14回追記
ESSO RACING TEAM STORY 第15回
ESSO RACING TEAM STORY 第16回
ESSO RACING TEAM STORY 第17回
ESSO RACING TEAM STORY 第18回
ESSO RACING TEAM STORY 第19回
ESSO RACING TEAM STORY 第20回
ESSO RACING TEAM STORY 第21回
ESSO RACING TEAM STORY 第22回
ESSO RACING TEAM STORY 第23回

※ブログ右端のカテゴリー欄に
ESSO RACING TEAM STORY を追加しています。
過去の記事はそこからもご覧頂けます。


※モータープレスでは、ESSO RACING TEAMはもとより
往時のレースシーンにまつわる皆様からの情報をお待ちしております。
コメント欄に載せたくないもの、または画像を添付したい
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可能性もありますが、どうぞよろしくお願いします。











2011.04.24 Sunday

Racing Boysの皆さん、ありがとうございました!

 

Motor Press(モータープレス)は
 極個人的な自動車偏愛日記 




昨日、東京調布市にある味の素スタジアム
アタクシは、会計係の末席としてお手伝い。



会場に飾られたBowさんによる大会イメージ画。
そこに参加いただいたレーサー、ライダーの皆さんのサインが!
これもオークションに出品されました。


100%チャリティの手作りイベントということで、
特別な準備もなく、来場者は床に座る! という
状況でしたが、本当に多くの皆さんに来ていただきました。
(結構、名だたる業界関係の方も沢山いらっしゃいましたね)

ではモータープレス的視点で、おおー! と唸った品物をいくつか。


まず、当日天気まで当時を再現したのでは? と思わせた
高橋晴邦さん出品のスパーク製1/43 トヨタ・セリカ・ターボと
日本の名レース100選(サイン付)のセット。

今宮純さんと原富治雄さんのMCで進められたのですが
もっとトークを聞きたかった! という方もいらっしゃるでしょう。
それはまた後日開催される予定の、Racing Boysのイベントでお楽しみに。


京都からお越しいただいた鮒子田寛さんは、
エブロ製1/43シェブロンB21Pにサインを入れて出品。
これ、ミニカー自体もレアものですから。
晴邦さんのものと共に、誰も手を上げなかったら俺が落としちゃる!
と思っていましたが、世の中そうは甘くありませんでした(泣)。


さらに途中で星野一義さんが飛び入り参加!
チーム・インパルのスタッフブルゾンをサイン入りで提供してくれました。
鮒子田、晴邦、星野の3巨頭が揃う機会なんてなかなかないですからね。
写真撮ったり、サイン貰った方、ラッキーでしたね。


さらに先日の中国GPの予選で小林可夢偉選手が実際に
装着していたバイザーや。


1991年のブラジルGPでアイルトン・セナが実際につけていた
ヘルメットのバイザーなんてお宝も! 
ちなみにセナのバイザーは32万円でハンマープライス!


また福島県出身の平忠彦さんは、被災地のために!
ということで、お宝を提供してくださいました。
まずはサイン入りレプリカヘルメット(新品)。


そして! なんと1986年に実際に着用されていたTECH 21カラーのつなぎを出品。
なんでも平さんが所有する最後の1着なんだそう。
もうコレクターズアイテムというか、もはやミュージアムもの!

当時資生堂でマシーンやつなぎなど一連のデザインをされていた鐘尾隆さんも
来場されてましたが(本気で落とすつもりだったそうな)、
熱烈な平さんファンによって落札されました。よかったですね!


さらにさらに、スーパーアグリ時代に佐藤琢磨選手が着用していた
レーシングスーツ(サイン入り)なんて大物まで!

3時間という時間があっという間に感じられるほど
濃密なチャリティオークションとなりました(疲れた〜)。

さて、皆さんからの善意のチャリティ総額は
な、なんと221万9500円!
さらに会場で集まった募金も合わせ
231万5975円が、全額日本赤十字を通じて被災地に送られることになりました。

お集まりいただいた皆さん、協力いただいたレース関係者の皆さん
そして忙しい中、ボランティアで駆けつけていただいたスタッフの皆さん
本当にご苦労様でした。

たった1度のイベントで終わる事なく、この動きが
継続的に続けていければと、ワタクシも思っております。
1日も早く、被災地に心からの笑顔が戻りますように!

いやぁ、モーターレーシングを愛する皆さんの
心意気を感じられて、実に幸せな1日でした。
本当にありがとうございました。






2011.04.22 Friday

素敵な贈り物!

 

Motor Press(モータープレス)は
 極個人的な自動車偏愛日記 



昨晩のこと。
「今から行っていい?」
と1本の電話が。

電話の主は、元職場であるカー・マガジン編集部の
ミニカー大王、もしくはアバルト&ランチア大臣の上野和秀さん。
この道の大先輩であり、師のひとりであります。

そんな上野さんが我が家に持って来てくれたのがコレ↓


な、なんとAUTO SPORT(三栄書房 刊)の1972年〜1977年フルセット!
さらにRacing On(ニューズ出版 刊)の初期もの。

なんでもご自宅のコレクションを整理する過程の中から出た放出品とのことですが
いやーーーー何にも増して嬉しい。
特にESSO RACING TEAM STORYを紐解く上でこの時代の資料は必須ですから。
(ぱーっと見ただけでも、あっ! という発見がありました)


これはESSO EXTRA (アウグスタMk3)の製作過程のレポート。
当時の他の記事を見ると、FL500で果たしてインボードスプリングの必要があるのか?
なんて寸評が書かれていたりと、面白いです。


あと、これは珍しい当時のレースコンストラクター訪問記。
御殿場に移転したてのレーシング・クォータリーの工場を紹介してます。
写真じゃなくてイラストっていうのがいい。
こういう変化のある記事が多くて、読み応えがあります。
編集部が頭を使って本を作ってる感じ!


さらにフト開いたら、12ゴルディーニ時代のゴルディーニカップのカラーグラビアが。
キャー! Mスールが選手権獲得とありますが、これマルク・スレールのこと?
いやぁ、眠れなくなりそう。
上野さんありがとうございました。

……でも、この本の山、どこに収納しよう……。奥さんの目が怖い。



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2011.04.21 Thursday

がんばろう日本!

 
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今日発売の東京中日スポーツにも掲載されておりますが
週末、23日土曜に東京調布市にある味の素スタジアム


カメラマンの原富治雄さん、F1解説でお馴染みジャーナリストの今宮純さん
そしてWGP グランプリライターの遠藤智さんが中心となって行うこのイベント。
関係各位の貴重な品々のオークションによって得られた収益を
全額被災地に日本赤十字社を通じ寄付しようというものです。

その精神に賛同し、ワタクシも微力ながら裏方を
お手伝いさせていただくことになりました。
もちろん、主催のお三方を含め、レーサー、ライダーの皆さんも全員ボランティア。
会場となる味の素スタジアムも無償提供という100%チャリティのイベントなので
皆さんに配慮が行き届かない点もあるかと思いますが、
どうぞよろしくお願いします。

ちなみに出品商品はオフィシャルHPに順次リストアップされていきます。
(ああーー! という一品ものも結構あります)
さらに当日は様々なゲストも駆けつけトークショーも行われる予定。

開場11時30分、開始12時。
ざっくりしとしたスケジュールとしては、
4輪(F1を含む):12時〜
2輪       :13時〜
INDY       :14時〜
といったところ。

トーチュウにもありましたが、佐藤琢磨&小林可夢偉選手の秘蔵品のほか
平忠彦さんの秘蔵品も出展されるそう。
さらにモータープレス的に情報をリークすれば、
ナマ鮒子田、ナマ晴邦を見られるチャンスでもあります。
さらに山口正己さんの爆裂トークを聞けるかも!?

なんでも200名ほどのキャパの会場なので
来場者多数の場合は整理券の配布や、入場制限があるかもしれないとのことですが
皆さんよろしくお願いします!

ではまた。








2011.04.20 Wednesday

インディウィナー、ロータス38に乗ったつもり

 

Motor Press(モータープレス)は
 極個人的な自動車偏愛日記 




ここんとこ、ちょっとバタバタで手抜き気味のモータープレス。
すんません。
ESSO RACING TEAM STORYは飽きてしまったわけではなくて(笑)
来週明けに公開予定ですので、暫しお待ちを(何度も言ってますね)。

さてさて。
以前、このブログでクラシック・ティーム・ロータスでレストアを
されていたロータス38/1のレストアの模様を映した動画をご紹介しましたが
さらにこんな動画をみつけました。

ROAD & TRACK誌の企画で行われたダリオ・フランキッティによる
ロータス38のインプレッションを収めた動画。
その名も“Dario's Dream”

な、なんと試乗の舞台はインディアナポリス。

そもそも38を走らせるってだけで大事なのに
インディアナポリスは借りきるわ、
比較のためだけにロータス49まで持ち込むわ
ガッツリ、ハイクオリティの動画を撮るわなんて、なんと豪華な取材。
いいなー。日本じゃ物理的にできないわな。


いやーそれにしてもダリオの嬉しそうな事!
レーシングスーツも、ヘルメットもクラーク仕様になってたりして芸も細かい。
彼、1973年生まれですから、僕と同世代なんだけれど、
グッドウッド・リバイバルでクームズEタイプに乗ったりと、中々エンスーなんですよね。
しかも2007年と昨年のインディ500&IRLチャンプがエンスーだし。
嫁さんはアシュレイ・ジャッドだし。あまりの境遇の差は羨ましい限り(泣)。

さて、そんな動画をよーーく見ていたら、ダリオの付けていたレーシンググローブが
“ジム・クラーク・ドライビンググローブ”なのを発見。
確かに当時の写真をみると、本人もこれを付けてドライブしているんですよね。
(当時、F1からツーリングカーまで、結構これ付けて乗ってますね)
もちろん、ダリオが付けてるのは、最近復刻されたレプリカだと思いますが……。


ちなみに僕も持ってます(笑)。
六本木のル・ガラージュで買ったのだけれど、今はもう在庫切れみたい。
どうも限定品で、海外にも在庫がないみたいだし。また復刻されるといいなぁ。
これ、薄く滑らかな革で、フィットして具合がいいのですよ。

これしながら、さっきの動画を見て自分もドライブした気になったり……
むなしい……。



そんなインディにおけるロータスの歴史を振り返るのであれば
このTEAM LOTUS THE INDIANAPOLIS YEARS(PSL刊)は必読。

なんてったって、著者はあのアメリカ人ジャーナリストの大御所
アンドリュー・ファーガソン。彼は1960年代にティーム・ロータスの
マネージャーを務めていた人物ですからね。これ以上の適任はいないわけです。
(そういう意味では、昨日紹介した中村監督も書いたホンダF1の本にも似てます)

余談ですが、1960年代後半に彼がアメリカに戻ることになった時、
後任にとチャプマンが声をかけたのが、当時ロータスを離れていた
ピーター・ウォーだったのですね。



なんてったって、こんな珍しい2ショットが入ってるくらいですから。
おおー。

というわけで、最後に懐かしいCMのおまけ。





ではまた。

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