2011.04.25 Monday

ESSO RACING TEAM STORY 第24回

 


Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



―― ESSO RACING TEAM STORYは、1970年台の初頭に
東京・青山の片隅で、真剣にF1を夢見て集まった若者たちの情熱の物語です。



【トヨタのプリンスの加入】

新たに始まったFJ1300の開幕戦で、優勝寸前! の3位という
活躍をみせたESSO RACING TEAM。

6月17日に富士スピードウェイで行われる第2戦
RQCフォーミュラチャンピオンレースを前に
ティームに強力なメンバーが加入することになります。

それが当時のトヨタワークス、TMSC-Rの若きエースである
高橋晴邦さんの加入でした。
晴邦さんといえば、1966年法政大学工学部在籍中に
フェアレディ1500で船橋ゴールデンビーチトロフィーにデビュー。
翌年TMSCのクラブ員となり、その活躍ぶりを評価され
1969年にトヨタ自販とワークスドライバー契約。
その年のJAF GPでは、デビュー戦のGT-Rの優勝を阻止したことが
進路妨害としてペナルティを課せられたことで話題となりました。

特に1971年以降は連戦連勝の活躍ぶりをみせ
同年に発足したTMSC−Rのエースとして、
名実共にトヨタワークスの顔となっていました。

そんな晴邦さんが、1972年の日本オールスターレースでのFL500に続き
ESSO RACING TEAMのシートに収まる事になったのです。



「ESSOをドライブすることになったのは、山梨信ちゃんから
 オファーがあったからだと思う。それで僕がトヨタに交渉して乗れることに
  なったのです。少なくともトヨタがOKしない限り、他のクルマには乗れなかったからね」

では、なぜトヨタ・ワークスのエースという立場にあった
晴邦さんが山梨さんのオファーを受ける気になったのでしょう?

「僕はトヨタ7で世界に行こう! って思っていたのに、
 川合稔さんの事故でそういうレーシングカーを作らないという流れになって
 フラストレーションが溜まっていた。僕の中ではずっと
    “日本のクルマで世界に!”
 という気持ちが強くあったからね。それ以外の選択肢は考えていなかった。

 それに1972年の鈴鹿1000kmで優勝して
 評価もグンと上がって、若手のエースっていわれるようになって
 マシンテストなんかも僕中心で動くようになっていた。
 1973年のトヨタとの契約更改の時に “給料を倍にしてくれ!”って
 会社と交渉したけれど、そうは簡単にいかなかった。
 そんな時、加藤真から一緒にル・マンに行かないか? と誘いがあったので、
 給料以外の条件交渉をして、“トヨタ車以外の国産車に乗るのはダメだけど、
 外国製のマシン&エンジンのものならOK。
 ただしトヨタが参戦しているレースの時は、トヨタを優先する事”
 という条件で契約更改した」

こうして晴邦さんは、1973年に加藤真率いるシグマ・オートモーティブと契約。
同時に生沢徹、黒澤元治、酒井正、高原敬武、風戸裕とともに、
この年から大々的なプロモーションを展開することとなる、
ブリヂストンとの契約も結ぶことになるのです。

「その頃ワークスは自分のところのエンジン以外には乗れなかった。
 GCなんか“アマチュアのレース”って認識だったから、
 ワークスは誰も出てなかったし。
 実際72年までは現役のワークスは誰も出ていない。

 ただちょうどタイミングが良かったのは、
 黒澤さんが日産やめてBSと契約してGCに出るなんてことになったのが
 話題になったりしてね。
 僕もトヨタと前述の契約をして他のティームで乗れる事になった。
 その話を聞いていた見崎も“じゃあ僕も!”ってことで、同じような条件で
 GCに出る事になったはずだよ。

 あの頃の富士1000kmの写真を見ると、
 僕のセリカターボだけノーズに“晴邦ステッカー”貼ってあるだろ? 
 ああいうことも、それなりの立場になるとできたのよ」

さらに、シグマと平行するかたちでESSO RACING TEAMの
FJ1300をドライブすることになった理由を晴邦さんはこう語ります。

「ESSOに乗ったのはね、シグマでル・マンに行くのはもちろんだけど、
 僕の最終目標はF1だったから、フォーミュラの経験を積みたくて、
 信ちゃんの誘いを受けたのだと思う。
 既にF2000あったけど、台数は少ないし、FJ1300の方が
 コンペティティブで、何にもましてノバは国産マシンだった。
 またエンジンはカローラで、スポンサーもトヨタとの繋がりの深い
 ESSOだし。そういう意味でも問題はまったくなかったからね。
 もしかしたら、上の方でそういう話があったのかもしれないけれど」

こうして鮒子田寛、高橋晴邦と、かつてワークス・トヨタで
ティームメイトだった二人が(デビュー年は違うものの、
二人は同じ1946年生まれ)
再び同じティームでタッグを組む事になったのです。

しかし、同じティームであるにも関わらず、鮒子田車はダンロップ
晴邦車はブリヂストンと、それぞれ違う銘柄のタイヤを履いていました。
その訳を晴邦さんはこう説明します。

「僕はBSと契約してたから。そのベースの契約はシグマなんだけどね。
 確か1レースいくら、みたいな使用契約をしましたね。
 でも、トヨタ・ワークスはダンロップがメインだったので、
 トヨタで走る時はダンロップ(笑)。今思うと大らかな時代だったね。
 だから僕のはBS、鮒子田のはダンロップだった」

さて、そんな晴邦さんのFJ1300デビューレースは、
1973年6月17日にFISCOで開催された
FJ1300シリーズ第2戦、RQCフォーミュラチャンピオンレースとなりました。

RQCフォーミュラチャンピオンレース予選にて 撮影:猪口勝男

ところがこのレースにエントリーしたのは晴邦車1台のみ。
その理由は定かではありませんが、晴邦さんはこのレースで6位入賞。
優勝したのは、1台だけぶっちぎりの速さをみせた
長谷見昌弘のKEマーチ・サニーでした。

「彼とは当時、家族ぐるみの付き合いで仲が良かったけど
 レースでは直接のバトルってないんだよね。
 こっちの調子がいいか、向こうの調子がいいかで、直接勝負にならない。
 国さん(高橋国光)や北さん(北野元)とは結構やってるのにね。
 このFJの時もそう。長谷見のマーチだけピューっと行っちゃうから
 直接勝負をしていないんだよ。彼と一度でいいからガチンコ勝負を
 してみたかったと、今でも思いますね」

実質的に初めてのプライベート体制での参戦、
初めての本格的フォーミュラカーのレースという状況にも関わらず
晴邦さんは、すぐに順応して非凡な才能を発揮するようになります。
(つづく)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

※過去の記事

ESSO RACING TEAM STORY プロローグ1
ESSO RACING TEAM STORY プロローグ2
ESSO RACING TEAM STORY 第1回
ESSO RACING TEAM STORY 第2回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回補足
ESSO RACING TEAM STORY 第4回
ESSO RACING TEAM STORY 第5回
ESSO RACING TEAM STORY 第6回
ESSO RACING TEAM STORY 第7回
ESSO RACING TEAM STORY 第8回
ESSO RACING TEAM STORY 第9回
ESSO RACING TEAM STORY 第10回
ESSO RACING TEAM STORY 第11回
ESSO RACING TEAM STORY 第12回
ESSO RACING TEAM STORY 第13回
ESSO RACING TEAM STORY 第14回
ESSO RACING TEAM STORY 第14回追記
ESSO RACING TEAM STORY 第15回
ESSO RACING TEAM STORY 第16回
ESSO RACING TEAM STORY 第17回
ESSO RACING TEAM STORY 第18回
ESSO RACING TEAM STORY 第19回
ESSO RACING TEAM STORY 第20回
ESSO RACING TEAM STORY 第21回
ESSO RACING TEAM STORY 第22回
ESSO RACING TEAM STORY 第23回

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※モータープレスでは、ESSO RACING TEAMはもとより
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2011.04.04 Monday

ESSO RACING TEAM STORY 第23回

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



―― ESSO RACING TEAM STORYは、1970年台の初頭に
東京・青山の片隅で、真剣にF1を夢見て集まった若者たちの情熱の物語です。



【発覚したトヨタ・エンジンの実力

ステアリングギアボックスの不具合によるクラッシュの後遺症で
たった1台の出場ながら、鮒子田選手の奮闘により
トップ争いを繰り広げたうえ、デビュー戦を3位で終えたESSO RACING TEAM。

当時レースを金網越しに見ていたファンのひとりである
lotus49fordさんはこう振り返ります。

(写真提供:Racing Retro

「1973年のFJ1300の開幕戦もあまり覚えていませんでしたが
 藤原さんのBlogで思い出してきました。
 確かにスタート時点で鮒子田選手は後ろに方にいましたが
 どんどんと上位に進出しました。そして林選手とのバトルになりました。
 添付はその写真です」

しかしその活躍の一方で、前回の鮒子田さんの回想にもあるとおり
ティームには一抹の不安がありました。

――それはレース用&スペア合わせて、4基が無償提供されていた(!)
虎の子のトヨタ・ワークス・エンジンの実力不足でした。
鮒子田さんの “高回転域はそれなりの良かったけど、
中低回転域のトルクは全くない特性” という記憶を裏付けるように
当時の状況を解良さんは、こう証言します。

撮影:前田恵介

後に日仏(後のスリーテック)が柳田(春人)君用にNOVA01を1台購入して
 参戦していた関係で、彼のサニーエンジン搭載車にも富士で乗りました。
 結果は、カローラはサニーに比べ中速域のトルクが低く、
 高速域は同じで回転数が少し高い程度。これでは勝てないと確信しました。
 ですからその時、両ドライバー氏(鮒子田/晴邦)の速さを認めました。
 シャシー性能はマーチに負けてるとは思いませんでした」

1974年シーズンにサニーA12ユニットを搭載してFJ1300に参戦した
高田和政の城南宅建ノバ01(AUTO SPORT YEAR '75 三栄書房 刊)

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もちろん、ノバとしても後にエンジンへの対策を施す事になります。

「その後、綱島チューンから斎藤チューンになり中速、高速域も改善されました。
 斎藤君は元ヨシムラ・コンペティションのメカで、在籍中に
 N360のエンジンの担当をしていて、お互いエンジンで競り合った間柄です。
 彼が多摩ホンダのデーラーの社長さんのバックアップで
 4輪のエンジンチューンを始めたのでカローラの(綱島チューンがベース)
 エンジンをお願いしました。
 数値は確かではありませんが、カローラはサニーに比較してショートストロークの為、
 相対的にトルク不足(その為かトップエンドは少し高い)ではありました。
 また、綱島チューンではバルブスプリングが折れるトラブルが初期にありましたが
 斎藤チューンはアメリカ製のアウター、インナーがこすれるタイプのスプリングで
 サージング領域も上がり、ばね定数も低くパワーロスが少ないと
 斎藤君に言われた記憶があります」

もちろん、当時のESSO RACING TEAMにとって
トヨタのワークスエンジンの供給を受けられるという状況は願ってもないものでした。

また、当時ESSOの宣伝課長だった嶋田豊氏が、
「当時トヨタからの推薦もあったと記憶している」と証言されているとおり
1962年以来、トヨタへのオイルなどの供給を一手に引き受けていたESSOが運営する
レーシング・ティームのマシーンにトヨタのエンジンを搭載するというのは
ある意味、必然でもあったのです。

この年のドライバーが、当時のトヨタ・ワークスであったTMSC-Rのエース高橋晴邦と
元TEAM TOYOTAのエースである鮒子田寛というドライバーラインナップであったのも
それを象徴しているといえるでしょう。

しかしながら、そんな体制をもってしても
サニーのA12型OHVエンジンの強さは圧倒的でした。
そんな状況の中でもトップ・コンテンダーとしてESSOが君臨できたのは
解良さんの証言のとおり、2人のドライバーの腕とシャシーの素性の良さによるものでした。

解良さんはまた、ノバ01の素性の良さを示すこんなエピソードも紹介してくれました。

「後にホンダRSCの高武(富久美)さんがケン松浦さんチューンの
 シビック・エンジンをノバ01に積んで鈴鹿を走っています。
 このシビック・エンジンも木村さんの要望で最初に富士でテストドライブをしました。
 ロングストローク・エンジンの割にはレスポンスが良くてパワーもあり(CRキャブ)
    アルミブロックで後ろが軽かったのでバランスが良かったのを覚えています
 トルク、パワー共カローラと比較して勝っていて(OHCとOHVの違い)
    自分でテストしてみて“これなら勝てる”と感じました

その通り、無限によるシビック・ベースのMF318エンジン(+NOVA&松浦チューン)
を搭載したノバ01は、1974年シーズンに登場(ドライバーは高田和政&高原敬武)。
1975年シーズンにはマーチ全盛の中、2年落ちのシャシーながら
高武富久美のドライブで最高位2位を含む数度の表彰台を獲得。
圧倒的な強さでチャンピオンとなった長谷見昌弘に次いで
全日本ドライバーズ選手権FJ部門の総合2位に輝いたのでした。

高武富久美のノバ01 無限NF318(AUTO SPORT YEAR '75/'76 三栄書房 刊)


結局3台が製作された(と思われる)ノバ01は
後継となるノバ513が登場した1976年シーズンになっても活躍を続ける事になります。
それは、当時の国産フォーミュラとしては異例の息の長さでもありました。

(AUTO SPORT YEAR '76/'77 三栄書房 刊)

ということで、次回は1973年にESSO RACING TEAMのレギュラーとして
加入した高橋晴邦さんにご登場いただく予定です。お楽しみに。

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※過去の記事

ESSO RACING TEAM STORY プロローグ1
ESSO RACING TEAM STORY プロローグ2
ESSO RACING TEAM STORY 第1回
ESSO RACING TEAM STORY 第2回
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2011.03.29 Tuesday

ESSO RACING TEAM STORY 第22回

 
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極個人的な自動車偏愛日記



―― ESSO RACING TEAM STORYは、1970年台の初頭に
東京・青山の片隅で、真剣にF1を夢見て集まった若者たちの情熱の物語です。



【つかみ損ねたデビューウィン

新しくスタートすることになったFJ1300へステップアップすることとなった
ESSO RACING TEAMの1973年シーズンは、5月3日に開催された
JAF グランプリから始まりました。

マシーンは、トヨタから門外不出のワークスエンジン
トヨタ・カローラ用3K-B OHVユニットを搭載したノバ01。
白と赤のイメージカラーで塗られたマシーンは“ESSO EXTRA"と呼ばれ
開幕戦のエントリーリストには、鮒子田寛、米山二郎の2名が登録されていました。

しかし、当時の出走記録には鮒子田さんの“ESSO EXTRA"しか載っていません。
その裏事情を教えてくれたのは、かつてコッパ・ディ小海や
コッパ・デッレ・アウトストリケなどの仕掛人としても知られた
京都在住のエンスージァスト山中信博さんでした。

「中学1年の時、同級生の家に遊びに行ったら、そこに矢吹圭造のエスがあった。
 それを見たら、同級生はそっちのけで、そのクルマを改造している
 彼の兄貴と遊ぶようになってね……。その兄貴が林みのるだったんです」

という山中さんは、以来レースの世界にのめり込み
マクランサ・パニックの製作などを手伝ったあと、解良さんらとともに
創立間もないノバ・エンジニアリングのメカとして現場にいたという経歴の持ち主。

当時の山中(愛称:サンチュウ)さんのことを、解良さんはこう振り返ります。

撮影:前田恵介

「僕の記憶では彼は数ヶ月間、ノバ設立時にいましたよ。
 ただ正式な社員かどうかは山梨さんに聞かないと分かりません。
 FJ1300の時には金子君(後のマキシムカーズ)とサンチュウがコンビを組んで
 晴邦さんの車、風戸君のマーチ(チーフは猪瀬さんで風戸レーシングのスタッフ)
 をサポートした記憶があります」

その山中さんに、ノバ時代の記憶を伺ったところ、こんな証言が寄せられたのです。

「ノバ01といえば、ステアリングシャフトをRSC製のモノを使うことになって
 木村昌夫さん(現 無限)から買ったんですよ。ところがそれが不良品で、
 富士の最初のテストの時、いきなりステアできなくなってクラッシュしてね。
 木村さんが慌てて飛んで来て、責任を感じて自らモノコックのリベットを剥がして
 直そうとしたりして(笑)。それをオケラと一緒になだめて止めたのを覚えてますよ」

そのテストの時にステアリングを握り、クラッシュの憂き目にあったのが、
鮒子田寛さんでした。

撮影:前田恵介

「その通り!!! この時のレースは富士の左回りを使用していて、
 クラッシュした場所はヘアピンの進入。ハイスピードからのハードブレーキングの後、
 ハンドルが切れず、車が回らず、まっすぐにガードレールに突っ込んだ。
 レース前の練習で、米山車も全く同じ場所で突っ込みクラッシュ。
 2台が同じ場所でクラッシュしたので、おかしいと思い
 車の問題だと主張してもオケラは我々の意見を無視した!
 それでレースでは車の修理が間に合わす、1台欠場して私だけが出たんです。
 当時、部品に問題があったという話は知らされず、先日の京都取材の折、
 尾張屋でそばを食べた時に、オケラから部品の問題だったと聞かされた(笑)」

ということで、解良さんに事の真相を伺ってみました。

「解良からお答えします。皆様当時の事ですでに時間も経過し、
 誰も怪我をしなくて良かったので、この場を借りて白状します。
 ステアリング・ギアボックスは、当時のRSC製で
    木村さんが1台目のクラッシュの直後、日仏自動車
 (ノバのファクトリーが完成するまでは日仏自動車内で作業)を訪ねてきましたが
 私としては確信は持てませんでした。しかし2台目で確信が持てました。
 原因はラックの回り留めが機能していなくて、ギアが引っかかった為に
 ステアリング操作不能になったのです。後のレースは対策をしました。
 怖かったでしょうね?」

これがデビュー戦ながら、1カー・エントリーとなってしまった
JAFグランプリの真相だったのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さて、5月3日に決勝が行われたJAF グランプリ。
初開催となるFJ1300レースには、22台ものエントリーが集まりました。
その中でポールポジションを獲得したのは、谷口芳浩の竹茗堂ベルコ。
たった1台の出走となったESSO EXTRAの鮒子田車は
11番グリッドからのスタートとなります。

しかし迎えた決勝レース。
11番グリッドからスタートした鮒子田ESSO EXTRAは
序盤から林将一のハヤシ708、阪口顕のUCC(ハヤシ)708、
中野雅晴のヒーローズ KS-03、谷口芳浩、松本鋼一のべルコ98Aと
トップグループを形成。
その後レースは、林将一と、鮒子田寛の一騎打ちの形相を見せるようになります。

(写真提供:Racing Retro 鮒子田車の背後に迫るのは、谷口べルコ)

「当時のトヨタエンジン(綱島チューン)は、高回転域はそれなりに良かったけど、
 中低回転域のトルクは全くない特性でした。
 だから、左回りの最初のヘアピン、最終のヘアピンの立ち上がりでは、
 2速(1速を使うこともあった)でも、息つきをしながら
 ようやく加速するという感じでした。
 レース中、林将一のハヤシとトップ争いをしていたのだけど、
 1コーナー、ヘアピンのブレーキング、300R、100R等は
    こちらがダントツに速いのだけど、ヘアピンの立ち上がり等では
    息つきで差を詰められる(或いは、差を広げられる)状況だった。

 そのレース中、シフトロッドの先端でレバーを締め上げているナットが緩み、
 シフトが3速4速しかできなくなってしまった。
 と云う事は、2つあるヘアピンを3速で回ることになる。
 低速トルクがなくて、それでなくても苦しいヘアピンを3速で回るのだから大変、
 パツ、パツ、ボソボソで加速せず立ち上がりで簡単に林将一に抜かれてしまう。
 それを、1コーナーから300R、へアピンのブレーキングで抜き返す。
 この争いがレース最後まで続いたのだが、
 結局、直線では抜き返せずじまいで3位フィニッシュ。

 終わってから、オケラがなんて言ったと思う! 
 走りながら手で締めれば良かったのにだって!! 
 そんなことは走りながら試したけど、閉まるものではない! 
 と云う事で、またまた、オケラの武勇伝でした」

と、鮒子田さんが述懐するように、林将一のハヤシ708と
死闘を繰り広げたESSO EXTRAは、ファイナルラップで力つき
林、阪口のハヤシ勢にかわされ、3位でフィニッシュ。
デビューウィンを寸前で逃してしまったのです。
その時のことは、マネージャーだった尾崎さんも良く覚えていると言います。



「あ、これは勝った! と確信していたら、最後の最後で
 フシヤンのクルマが加速しないんです。これは悔しかったですね。
 3速、4速しか使えずタイトコーナーでは半クラッチを駆使して走っていたので
 ゴールした後のマシーンから異様な熱気が立ちこめ、クラッチフェーシングの
 焼ける独特な匂いがしていたのを覚えていますよ。
 3位には入ったけれど、僕らは勝ちに来ていたわけですから
 誰もが無言で、そそくさと片付けをはじめてね。
 もうピットの中は悔しさで溢れていましたね。
 フシヤンなんか、近づくのも憚られるほどの殺気が漂っていました」

もちろん、その悔しさは解良さんも同じでした。

「緩んだ要因はシフトシャフトのねじ山が荒いことでした。
 それで緩みやすかったのです。対策として後に
 シャフト部にロールピンを打ち込みました。
 勝ちを逃した悔しさで、ついフシヤンに悪たれを突いた記憶は在ります。
(反省はしていませんが)」
(つづく)

2011.03.24 Thursday

ESSO RACING TEAM STORY 第21回

 
Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



―― ESSO RACING TEAM STORYは、1970年台の初頭に
東京・青山の片隅で、真剣にF1を夢見て集まった若者たちの情熱の物語です。



【ESSO RACING TEAMを撮り続けた男

1973年、それまでティームマネージャーである
尾崎さんが一手に引き受けていたESSO RACING TEAMの
PR活動に大きな変化が訪れます。

まずひとつ目は、週刊プレイボーイ、平凡パンチ誌上で募集し
オーデョションが行われたESSOクィーンの募集。
もうひとつが、オフィシャルカメラマンをはじめとする
本格的なPRティームが、ESSO宣伝課に作られたことでした。

このPRティームで1年間ESSO RACING TEAMに帯同し、
撮影し続けたのが、カメラマンの猪口勝男さんでした。


現在は独立され、広告&イベントプロモーションを手がける
ご自身のスタジオ、INOX'sの代表を務められている猪口さんですが
当時は、広告全般を扱う代理店であるマップルに所属する
カメラマン兼プロデューサーでした。

撮影:猪口勝男/写真提供:解良喜久雄

そう猪口さんは、このESSO RACING TEAMの物語を調べていく
きっかけとなったティームの集合写真の左端に写っている人物、
そしてこのポージングをアレンジした張本人でもあるのです。

「そもそもは、エッソ宣伝課の阿部部長から
 ウチの会社に打診があったのがきっかけです。
 エッソ側としては、1年間レースを戦った経験をもとに
 本格的なマーケティングのためにレースを使いたかったんですよ。
 当時は企業でレーシング・ティームを持つなんてないですからね。
 それで、ちゃんと写真を撮ろう、そしてしっかりPRの材料に使おうって
 ことになったんだと思います。
 実は、あの丸善石油の小川ローザの
 “Oh! モウレツ” ってコマーシャルのスチール撮影を担当したのは僕だったんですが、
 あのCMは、結局イメージだけで何も残らなかった。
 だから僕としても、
 “広告は一般に広く認めさせるためのもの。
 エンドユーザーの共感意識を狙っていかないとだめだ”
 という思いがありましたから、世界のエッソで、
 こういう活動ができるのはいいじゃないか? って動き始めたんです。
 ですから、そのために福島から静岡まで
 20ヶ所くらいのSSを市場調査なんかもしましたよ

とはいえ、それまで広告写真を手がけてきた猪口さんにとって
クルマの撮影、しかもレースの撮影というのは初めての経験。
そのために、富士グランチャンの開幕戦に出かけていき
走るクルマの撮影のテストも敢行したのだといいます。

「僕の手帳によると、1973年4月10日レーシングカー完成。
 4月14〜17日に富士で初撮影とありますね。
 でも、とにかく最初は近寄りがたい雰囲気ありました。
 山梨さんなんて怖かったですもん。
 最初、メカとレーサーの皆さんから文句も言われた記憶がありますよ。
 それをESSO阿部部長が“彼らは報道じゃなくてESSOのオフィシャルだ”
 って言ってくれて、ようやく撮影ができたんじゃないかな?
 そりゃあ、今まで専属の撮影部隊をもつティームなんてなかったですからね。
 スタッフの皆さんにとっては、
 “忙しいのになんでウチばっか、パチパチ撮りやがって”
 って気持ちになりますよね。
 しかも仕事が終わると女の子と仲良くしてるわって(笑)。
 そんな中で最初に仲良くしてくれたのが晴邦さん。
 鮒子田さんは最初近寄り難かったですね。インパクトがありました。
 きっとレースに集中していたんだと思います。
 一方晴邦さんとは友達感覚でしたね。一緒にお茶したりとか。
 あと、解良さんは良くしてくれた印象がありますね。
 もちろん、後で皆さんと仲良くなりましたけど」

でも、そんな異業種の交流があったからこそ
ESSO RACING TEAMのプロモーションに
新たなアイディアが沸いたと猪口さんは言います。

「思い出した!  僕らですら近寄りがたいんだから、
 もっと一般の人も近寄りがたいんじゃないかと思ったんです。
 確か最初の頃はレースを撮影にいって、その間にポスター作ったんですよ。
 それをSSに配ってお客さんにアピールしていたわけです。
 だから最初はレースのクルマばかり撮っていたのですが
 暫くしてからクルマだけじゃなく、メカニックも撮ったんです。
 走るだけじゃなく、裏方の汗と涙とそういうモノも必要だと思って。
 それでカレンダーを作ったんですね。
 その時は、なんだかんだいって、ティームに情が入っていた
 という理由もありました。
 カレンダーは僕の発案で作ったものなのですが
 レースというドキュメントをアート的に表現したものなんです。
 そういうことをしたのはESSOが初めてなんです。オンリーワンですよ

猪口さんによると、当時ESSO RACING TEAMのPRに関しては
ティーム側は尾崎さん、そしてそれ以外のプロモーションは猪口さんに
ほぼ全権が任されていたといいます。
しかし、その自由な社風、そして広告畑を歩いてきた猪口さんならではの
斬新なアイディア、さらにESSOの世界的なネームバリューが
日本におけるレースを使ったPR活動の新たな地平を
切り開いていったともいえるのです。

「あの当時は僕らも世界のESSOの仕事なんだから
 報道のカメラではできない良いものを撮ってやろう! という気持ちがありました。
 ESSOの看板を背負っているってプライドがありました。
 当時、僕らはデザイナーを入れて4〜5人の撮影部隊でサーキットに来ていたんです。
 というのも、“人を共感させるには口じゃなく現場”という想いが僕の中にあったから。
 だからコピーを考える人間も連れていったのです。
 もちろん広告ですから、もちろん僕らもエッソのウェア着て、
 撮影車もESSOカラーにしてね。
 で、ある時レースのスタートシーンを撮ろうというときに
 ただ撮ってもつまんないから、ピットレーンの高い位置から
 俯瞰で撮影したいと思ったんですが、オフィシャルから脚立は使っちゃいけないと。
 そこで考えて、脚立がダメならと、アシスタントに肩車させたことがあります(笑)。
 そういう意味でも専属でやってるプライドはありましたね。
 阿部部長は“目立って良いな”って笑ってましたけど(笑)。
 あと、レンズから何から良いモノは率先して使っていました。
 当時としては先見のあるコダックのフィルムとかね。
 そういえば、いつだか雨の中、骨まで雨がしみる中で写真を撮ったこともあります。
 とにかく酷い状況だったので、他の報道カメラマンなんていなかったんですが
 でも、僕は敢えてそういう状況だから撮りたかった。
 その苦労の甲斐あってタイヤが5mくらい雨を跳ね上げる
 良い写真が撮れたのを覚えています。ESSOの方も、
 “ESSOがレースを諦めない”感じが出て良いと共感してくれました。
 その写真はカレンダーにも大きく使って
 それは一般ユーザーの皆さんにも訴えることができたと思います」
 
そうして猪口さんたちのPR班が、熱心に仕事をしていくのにあわせるかのように
ティームの一体感がどんどん深まっていったと猪口さんは述懐します。

撮影:猪口勝男/写真提供:高津信子 

「この富士での写真は、右から撮影スタッフ、東原、3番目が猪口、
 5番目が江平、6番目撮影スタッフ氏名不明、7番目和泉、8番目エッソ嶋田、
 10番目エッソ阿部。12番目晴邦、14番目鮒子田、17番目エッソ高津、
 18番目尾崎、そして一番左エッソ田畑。いずれも僕のアシスタントに撮らせた写真です。
 以前ブログに載っていたラインダンスの写真以外にも、
 こうした写真を僕はよく撮るんです。
 皆の一体感を示せるし、撮る時は恥ずかしがるけれど、後で見ると
 こういう写真って良いんですよ。
 あの鈴鹿のラインダンスも僕がポージングしてアシスタントに撮らせたものです。
 まわりのティームにとってはジェラシーだったでしょうね(笑)」

こうした一連のPR活動と平行して
猪口さんは、これまでとは違うPRの方法を模索していました。
それは、レース好き、クルマ好きだけに訴えかける従来の方法ではなく
広く一般にESSOブランドを周知させるためのプロモーションでした。

「これは1974年になってからですが
 4月に横浜の松坂屋でESSO RECINGのPRイベントとして
 ”ESSOヤングフェスティバル”を3日間開催したんです。
 いち企業がレースのイベントを、デパートの1階で催したのは、ESSOが初めてでした。
 デパート側も初のレーシングイベントに勝負を掛けて、1階のメインコーナーである
 化粧品売り場近くを使わせてくれたので、特に外資系化粧品メーカーの女性から、
 かなり興味を持たれたのを、覚えています。
 そこで写真やレースカーを展示しながら、様々な販促品を販売したんです。
 これは非常に評判を呼びました。
 それを受け5月に東京のパルコで、レース活動の写真パネルの展示会を開催。
 同じ5月に“ESSOヤングフェスティバル”を福島県・郡山で開催。
 11月には“ESSOレーシングカーショー”とタイトルを変えて名古屋で開催しています。
 もし、ESSO RACING TEAMの活動が74年以降も続いていたら
 もし尾崎さんたちともっと深くコミュニケーションを取れていたら
 もっともっと、色んなことができたかもしれませんね」

そう、その経緯はまた後日詳しく紹介しますが、
このように歯車が上手くまわりはじめた
ESSO RACING TEAMの活動は、1973年いっぱいで終了してしまいます。
しかし、今から40年近く前にESSO RACING TEAMが手探りの中から
確立していったレース活動を媒介したプロモーションというスタイルが
日本の後のレース界に大きな影響を与えたのは間違いありません。

そして、このESSO RACING TEAMとの1年間にわたる活動は
猪口さんにさらなる活躍の場を与えることになるのです。

撮影:猪口勝男/写真提供:尾崎郁夫

「当時ESSOのポスター類は京都にある野崎印刷という会社で刷っていました。
 野崎印刷っていうのは、ポスター印刷では当時トップの会社だったんです。
 世界のESSOの仕事だからって、野崎さんの方も採算度外視でやってくれて
 僕の方も、何回もしつこいくらい校正して良いものができました。
 この写真とはちょっとアングルが違うんですが、ESSO UNIFLOのクルマを
 B全サイズに伸ばして、イメージカラーの青とゴールドの奇麗なポスターを作ったんです。
 これが良い出来でね。野崎印刷さんからも是非フランス国際ポスター展
  “クロードフィールド展”に出展したらどうか、って薦められたんです。
 聞けば前回入賞したのは写真家の立木義浩さんって言うじゃないですか。
 不安だったけれど、ESSO側もOKしてくれたので出展したんです。
 そうしたら、なんと1974年のクロードフィールドで入賞したんですよ!
 その時に改めて思いました。これが名もない日本の企業のポスターなら
 ダメだったんじゃないか? やはり世界のESSOだからこそ目に止まったんじゃないかと。
 でも、僕にとってはすごい自信になりました。
 そういう意味で、僕は報道というのは、レースを記録するものだけれど
 我々はそんなレースをアートに変えたんだ! って自負がありますよ


 
 
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※過去の記事

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ESSO RACING TEAM STORY 第3回補足
ESSO RACING TEAM STORY 第4回
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ESSO RACING TEAM STORY 第14回追記
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2011.03.23 Wednesday

ESSO RACING TEAM STORY 第20回

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



―― ESSO RACING TEAM STORYは、1970年台の初頭に
東京・青山の片隅で、真剣にF1を夢見て集まった若者たちの情熱の物語です。



【ファンの目から見た1973年東京レーシングカー・ショー


前回、1973年から開催されることになった新しいフォーミュラカーの
カテゴリー“FJ1300”にステップアップすることになった
ESSO RACING TEAMが、3月に開催された東京レーシングカー・ショーで
新体制のお披露目をした模様をお届けしたところ、
日頃コメントを寄せてくださっているlotus 49 fordさんから
貴重な当時の写真が送られてきました。

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Motor Press毎日楽しく拝見させていただいております。
ペースが速くていつも書き込みするチャンスを逃してしまっています。

すでに遅いかもしれませんが
1973年の東京レーシングカーショーの写真をお送りいたします。
40年近く前のことなのであまり記憶はありませんが
他の展示(ハヤシレーシングの写真をご参考に)は
ただマシンを置いているのに対してEsso Racing Teamは
見せるための工夫を凝らし垢抜けた展示の様子が分かります。

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ということで、早速送っていただいた写真がコチラ。

(写真提供:Racing Retro

1972年シーズンに活躍したアウグスタMk3と、FJ1300用のノバ01が
一緒に展示されていたのは知っておりましたが、実は2台が一緒に収まった
写真というのは、見る事ができませんでした。貴重です。
確かに下のハヤシ・レーシングに比べると、各ドライバー
(解良喜久雄、鮒子田寛、高橋晴邦、高原敬武の順か?)のパネルやフラッグ、
横断幕などなど、ちゃんとディスプレイされている様子がわかります。

(写真提供:Racing Retro

(写真提供:Racing Retro

そしてお披露目されたてのFJ1300(ノバ01)。

このあたりの経緯を、当時のマネージャーであり
レーシングカー・ショーの事務局も務めてていた尾崎さんに伺ってみると。

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500と1300が2台写っている写真の前に
ドライバーの写真が飾ってあるので、
これらを段取したのは何となく覚えています(MPSで焼いて貰った?)。
 
1300の写真で2人顔が写っているのは、
ブレザーの上からエプロンを掛けていますので、
支店か何かのESSO関係者(R.Q.でもイベントスタッフでもありません)
だと思います。

R.Q.では基本的レースクィーンかイベントスタッフは
Tシャツとショートパンツのスタイルでした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

しかし、この写真ひとつとっても
1972年の状況から、ESSO RACING TEAMを取り巻く環境が
向上していたのかが伺えます。

ということで、次回はESSO RACING TEAMの活動を
PR面から支えたオフィシャル・フォトグラファーのお話をしたいと思います。

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2011.03.07 Monday

ESSO RACING TEAM STORY 第19回

 



Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



―― ESSO RACING TEAM STORYは、1970年台の初頭に
東京・青山の片隅で、真剣にF1を夢見て集まった若者たちの情熱の物語です。



【新しいカテゴリーFJ1300に向けて

ESSO RACING TEAMの活動が軌道に乗り始めた1972年の後半
そのレース運営側の母体であったレーシング・クォータリーでは
新たな動きがはじまっていました。

それは故 風戸裕選手の父、風戸健二さんの出資による
新たなレーシング・コンストラクター“ノバ・エンジニアリング”設立の動きです。
すでに世界への挑戦を始めていた風戸裕の国内での
活動をサポートするために興された組織の代表を任されたのは
成蹊大学の先輩でもあったRQの山梨社長でした。

併せて手狭になっていた青山のRQのファクトリーは、
1972年の途中から御殿場に移転。
解良さんの記憶によれば当初は日仏自動車の
ファクトリーを間借りしていたといいます。

またレース界に話を戻すと、1970年代に入って盛り上がりを見せてきた
フォーミュラーレースの振興策として、1973年からFJ1300と呼ばれる
新しいカテゴリーがはじまる事が決定します。
これは、F2000とFL500/FJ360の間を埋めるために
考案されたF3に準じたカテゴリーで、エンジン排気量が
当時の国産市販車からの流用を見越して1300ccに設定されたのが特徴的でした。

ESSO RACING TEAMは、1973年シーズンをその新たなカテゴリーに
ステップアップし戦う事を決意します。

ESSO RACING TEAMの新型FJ1300のレンダリングと製作風景
AUTOSPORT YEAR '73 (三栄書房 刊)より

新しいマシーンの開発を任されたのは、もちろん解良喜久雄さん。
角パイプとアルミ板を組み合わせたセミモノコック形式をもつ
フロントラジエーター式のシャシーは、クラッシュしたときに
サスペンションアームがドライバーを傷つけないように設計されるなど
ドライバー経験をもつ解良さんならではの、
安全性と整備性も考慮したものとなっていました。

1973年東京レーシングカーショー  写真提供:尾崎郁夫

航空機のキャノピーのような特徴的なスクリーンをもつボディのデザインは
アウグスタMk3に引き続き、若き由良拓也さんが担当しています。

3月の東京モーターショーで発表された
ドライバーラインナップは、前年FL500にもスポットで参戦していた
鮒子田寛さんと高橋晴邦さんという、新旧トヨタ・ワークス・コンビ。
併せて搭載されるエンジンも、綱島ワークスによって
トヨタ・カローラ用3K-B OHVユニットが供給されることになったのも
大きな話題となりました。

また1972年度の実績を踏まえ、この年ESSOによるスポンサーフィーも
大幅に増額。1973年から本格的に活動を開始したノバ・エンジニアリングの
処女作ということで“ノバ01”と形式名が付けられたFJ1300マシーンは
“ESSO EXTRA"と、“ESSO UNIFLO”と別々の名称で呼ばれ、
エントリーすることになりました。

これは、この頃発売された新製品の高性能オイル
“ESSO UNIFLO”に因んだもので、それぞれ商品イメージに合わせ
EXTRAはブルーを基調に、UNIFLOはゴールドを基調に
カラーリングされたのも特徴的でした。

さらに、新たなプロモーション活動を画策していたマネージャーの尾崎さんは
オフシーズンの間、週刊プレイボーイ誌と、平凡パンチ誌に、
レースクィーンの先駆けと言える、ESSO クィーンを募集。
3人のESSO クィーンが全レースに帯同するという新機軸を打ち出したのです。

これに合わせる形で、ESSO側も広報体制を拡充。
当時のレーシングティームとしては非常に珍しいことに
オフィシャルカメラマンが用意され、これまた全戦に帯同することになります。
(つづく)

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2011.03.01 Tuesday

ESSO RACING TEAM STORY 第18回

 

Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記



【戦国時代の72年FL500】


これまで、日本GPで4位、東京オールスター(札幌)で3&4位、
日本オールスターで5位という成績を収めてきたESSO RACING TEAM。
常にトップ争いに食い込むポテンシャルを見せるものの
コジマ、ハヤシ、ベルコといった強豪を前に勝利を収められずにいました。

やはり、その原因のひとつにスズキ・フロンテ用
3気筒2ストロークエンジンの台頭が挙げられるでしょう。
ESSO RACING TEAMとしても、その対策として
初戦の日本GPから、1台をスズキ仕様に変更しての参戦となりましたが
ワークス格のエンジンを搭載していたティームに対する不利は否めませんでした。

そんな中、8月19日〜20日に鈴鹿サーキットで開催された
’72全日本鈴鹿300キロ・ツーリングカーレースの中で行われた
F部門(FL500&FJ360)に向けて、ESSO RACING TEAMは新たな
ドライバーを迎え入れます。

それが前年、スポットでRQワークスとしてFL500を戦った
鮒子田寛さんでした。

当時の経緯を鮒子田さんは「良く覚えていない。おそらく山梨さんが
声を掛けてきたのだと思う」と証言されていますが、
この頃すでに73年シーズンからのFJ1300カテゴリーの設立が決まり
各ティームがそれに向け動き出していたことを考えると
晴邦さんのケースといい、翌年の活動に向けての体制作りが
始まっていたと見てもいいかもしれません。

いずれにしろ、この予選でESSOは、鮒子田6位、高原7位と
好位置につけます。
しかし迎えた決勝で、鮒子田さんは1周リタイア。
一方の高原さんは、ワークス・べルコを下し、
片山KE、高武ハヤシに次ぐ3位でフィニッシュ。
しかも高武ハヤシには、僅か0.1秒差という僅差でありました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

続くレースは10月14日〜15日に筑波サーキットで開催された
NETスピードカップレース。

参加台数35台を集めたこのレースは、エントリーリストに田中弘:鴻池スピードKS-01、
津々見友彦:東京技研F500、高武富久美:ハヤシ707X、真田睦明:アローS3、
久保田洋史:ファルコン72Bといった顔ぶれもみえることからもお分かりのとおり
日本GPに次ぐ規模で行われたFL500の東西総力戦といえるものでした。

このレースにもESSO RACING TEAMは鮒子田&高原コンビで出場。
残念ながら、詳しい資料がないため詳細が分からないのですが
予選レースを勝ち上がったESSOの2台は、決勝レースで
高武富久美、山本俊茂、林将一らハヤシ勢についで、鮒子田4位、高原5位で
フィニッシュしています。
(ちなみに1位〜6位までは約15秒以内という接戦でした)

NETスピードカップ準決勝レースのスタートと思われる写真。ゼッケン2は高原車。
手前のゼッケン28は中山松雄:メッカ・アローS3。 写真提供:尾崎郁夫

ちなみに上の写真、よく見るとESSO EXTRAのボディサイドに
“ブリヂストン”のスポンサーステッカーが貼られているのに注目。
実は日本GPの時のESSOの使用タイヤはダンロップ。
7月の日本オールスターレースの際にはブリヂストンを履いていたのが
確認できるのですが、果たしてタイヤの契約はどういう状況だったのか?
これもまた調査していきたいと思います。

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その後のレースの状況は、後日高原敬武さんにお話を伺ったときに
改めて紹介していきたいと思っているのですが、

1972年11月4日〜5日
’72鈴鹿グレート20ドライバーズレース    高原敬武 9位(1台のみ出場)

1972年12月3日
全日本オートスポーツトロフィーレース第2戦 解良喜久雄 DNS(1台のみ出場)

という結果を残し、ESSO RACING TEAMの1972年シーズンは幕を閉じます。
出走したレースは計8レース。
最上位は東京オールスターレース(札幌)での解良さんの3位と
全日本鈴鹿300キロでの高原さんの3位で、優勝を挙げることはできませんでした。

ドライバーズランキングは、FL500部門で高原11位(9P)、鮒子田18位(3P)。
メイクスランキングは7位(RQとして)という結果に終わりました。

確かにこうして結果だけを追い求めると、
大したことがないように思われるかもしれませんが、
RQを母体とした少ないスタッフで、レース活動はもとより
車輛開発、製造、販売、各種チューニング&メンテナンス、
RQ主催レース&イベントの運営、ESSOのプロモーション活動等々を
すべてこなしていたのですから、その仕事量は驚異的なものだったと思われます。
そういうことを考えると、常にトップグループを争う活躍をみせた
ESSO RACING TEAMの初年度は成功だったといえるかもしれません。
(つづく)


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2011.02.28 Monday

ESSO RACING TEAM STORY 第17回

 

Motor Press(モータープレス)
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【スタードライバーの招聘】

1972年の日本GPから本格的なレース活動を開始したESSO RACING TEAM。
その次の舞台となったのは、5月21日に富士スピードウェイで開催された
全日本オートスポーツトロフィー・レースの第1戦でした。

日本GPのみの契約だった戸張薫さんに替わって
ESSO RACING TEAMに加入したのは、
前年もRQアウグスタでFL500に参戦していた高原敬武さん。
その具体的な経緯は、改めて高原さんにお伺いしようと思ってますが、
これまでの経緯を考えると、スタードライバーの起用に積極的だった
山梨代表の意向で、契約したものと思われます。
(実際、当初のプレス発表時にも高原さん、鮒子田さんの参加が噂されてました)

またこのレースはFJ360ではなく、FL500規定で行われたため
スズキ仕様は400ccホンダ仕様は500ccのエンジンに積み替えられました。

迎えた予選では、高原車が7位につける健闘(解良車は18位)を見せたものの
決勝では、高原車、解良車ともに序盤でリタイアを喫しています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

続いて6月11日に開催されたのは、北海道スピードウェイでの
東京オールスター・レース 札幌プロダクションカー・レースでした。

解良さんによると、その予選でこんなエピソードがあったそうです。

「このレースが最初、高原君がスズキエンジン(400cc)で走っていましたが、
 予選中、私(ホンダエンジン)よりタイムが伸びなかったので、
 ピットに呼び寄せられてクルマを交換した記憶があります。
 多分高原君はススキの2ストロークのエンジンの
 乗り方に慣れていなかったんでしょう
 (当時の2サイクルはスロットルの開け方が難しい)。
 レースは中野君(ベルコ)が優勝しました」

このように、すでに性能的に上であることが、日本GPの時点でわかっていた
スズキ仕様が、最初に高原さんに与えられていたという証言からも
エースとして高原さんがティームに迎えられていたことが伺えます。
(いずれにしろ、レーサー解良の実力が伺えるエピソードですが)

この予選でESSO RACING TEAMは、解良車3位、高原車7位を獲得。

迎えた決勝レースでも引き続き好調で、ESSOの2台は
中野雅晴(べルコ97A)、林将一(ハヤシ706)、
鴨志田正信(レオン72F)、佐島英規(アローS1)らとトップ争いを展開します。

決勝でハヤシ706(林将一)を抑える高原車。写真提供:尾崎郁夫

36周のレースで、トップから5位までが20秒以内という僅差のレースを制したのは
中野雅晴×べルコ97A。ESSOの2台は、林将一(ハヤシ706)についで
解良ー高原の順で3-4位フィニッシュと、日本GPに次いで惜しい結果となりました。


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このあとFL500のレースは、1ヶ月近いインターバルを迎えます。

しかしながら、その間にESSO RACING TEAMは新たな動きを仕掛けていました。
それが、ワークス・トヨタの若手のエースとして知られていた
高橋晴邦さんとの契約でした。


photo:前田恵介

当時晴邦さんは、トヨタ・ワークスであるTMSC・Rの
契約ドライバーの身。1973年からは、トヨタ・エンジン搭載車
または外国製エンジン搭載車に限るという条件で、ワークス以外の
活動にも参画することになるのですが、最初にESSO RACING TEAMに
参加したのはそれよりも前、1972年7月のことでした。

「確か山梨信輔さんから声が掛かったんだと思う。
 自分から言うのもなんだけど、山梨さんは僕のことを気に入ってくれてね
 ドライバーを辞めたあとも、事ある毎に“復帰しないか?”って
 言ってきてくれた。ただ僕自身F1に行けないんだと分かった時点で
 レーサーをスパっと辞めたから、復帰する気もなかったけどね。
 それから暫くしてからかな。中嶋悟がFJ1300でチャンピオン獲って
 イギリスに挑戦する前に、山梨さんと中嶋と一緒に会ったんだ。
 そのときに山梨さんが “これからはもう晴邦さんに復帰してくれ
 お願いしなくて済むよ”と言ったのを覚えているよ」

このジョイントには、長年トヨタのオフィシャルオイル・サプライヤーと
してESSOが活動していたことも関係があると推察されますが
いずれにしろ、高原&晴邦という強力な布陣で、ESSO RACING TEAMは
7月1日〜2日に富士スピードウェイで開催された
全日本オールスターレース大会に臨むことになります。

日本オールスターレースの予選を走る高橋車。
写真提供:尾崎郁夫(MPSの故 渡辺氏の作品)

1日の予選でスズキ仕様のESSO EXTRAをドライブした晴邦さんは
片山義美(コジマKE FJ-2)、山本俊茂(ハヤシ706)に次ぐ3位を獲得。
高原さんも予選6位と好位置につけます。

そして2日の決勝。期待された高原車はわずか1周でリタイアとなりますが
中野雅晴(べルコ)、本橋明泰(アロー)、高武富久美(ハヤシ)、
片山義美(コジマ)、高橋晴邦(ESSO)、阪口顕(コジマ)の6台がトップ争いを展開。
1位〜5位が16秒以内という接戦の中、晴邦車は5位でフィニッシュします。

結局、晴邦さんがFL500に出場したのは、後にも先にもこの1戦のみ
(やはりトヨタとの契約が影響したのでしょうか?)となってしまいましたが
晴邦さんとティームとのジョイントは、翌1973年に新たな展開を迎える事になります。
それはまた後日。
(つづく)


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2011.02.17 Thursday

ESSO RACING TEAM STORY 第16回

 
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【もうひとつのレース活動】

前回、エッソ宣伝課(当時)の西尾直毅さんの
インタビューの中でお届けしたように、ESSO RACING TEAMには
通常のレース活動以外に、もうひとつ重要な活動がありました。

それが、全国のエッソSSへのプロモーション活動です。

ティームの中でその一切を取り仕切っていたのが
マネージャーである尾崎郁夫さんでした。

「僕が当時乗ってたパブリカのラリー仕様車の後ろに
 トレーラーを引いて、そこにFJを載っけて各地のSSへ行きましたよ。
 僕の友人と、その美人の友達を二人引き連れて
 キャンペーンガールをやってもらって。
 横浜、東京、平塚、沼津、浜松、静岡……。
 確か静岡の日星石油さんなんかは積極的に協力してくださいました」

ESSO RACING TEAM エッソ レーシング ティーム
当時の尾崎さんの愛車パブリカ。このクルマにトレーラーを牽引して
開業するSSのキャンペーンに出向いたという。 写真提供:尾崎郁夫

「ちょうど若者がクルマに乗り始め、モータリゼーションが始まるという
 時期でしたからね。レーススポンサーしながら、プロモーションを上手く
 やって販促に繋げられないか? という考えで始めたものでした」

と、当時の様子を西尾さんは振り返ります。

この戦略は見事にあたり、各地で開催されたキャンペーンは盛況だったといいます。
併せて、RQで作られたウェアやステッカーなどの販促物も沢山配布されました。
今ではこのようなレースティームによるプロモーション活動は、
珍しくありませんが、日本における先駆となったのが
このESSO RACING TEAMだったのです。


ESSO RACING TEAM エッソ レーシング ティーム
72年日本GPにて。戸張さんの着ているESSO RACING TEAMの
トレーナーは、おそらく初期に作られた販促物のひとつと思われます。
(残念ながら当時の写真がありません。お持ちの方はご連絡ください)
写真提供:戸張薫



またこうした活動には、尾崎さん以外のティームのメンバーも駆り出されました。
そのなかの一人、解良喜久雄さんはこう当時を振り返ります。


「1972年頃、FLのアウグスタをマツダ・ボンゴの後ろにトレーラーに乗せて
 遠藤君(注:“恵比寿 にんにくや”のオーナー、遠藤栄行さん)
 と私の2名で富山に(地道)行かされたの覚えています。
 確かエッソの富山支店の方が現地で対応して貰いました。
 夏の祭りの時でお城のお堀端で展示しました。
 当時はスリックタイヤが余り知られていないので
 観客から何で減ったタイヤを付けるのか良く質問されました、
 当然アウグスタも好奇な目で見られていました」
 
ESSO RACING TEAM エッソ レーシング ティーム
当時の解良さん。となりに立つのはレーシング・クォータリー社長の山梨信輔さん。
以前紹介した平凡パンチの記事に掲載された写真と同じ、六本木通り沿いのRQ傍で
撮影されたESSO EXTRA完成当時の広報写真である。 写真提供:解良喜久雄



尾崎さんによると、このようなプロモーション活動の一切は
すべてティームに委ねられ、ティームの判断で行われたものだといいます。

「ちゃんと写真を付けて報告書をその都度もって赤坂のTBS会館の中にあった
 エッソの本社に挨拶に行くのですが、“あ、そう” っていうような感じで
 完全に任せてもらってました。それだけ信用していただいたってことだと思います」

そういう意味でもESSO RACING TEAMの活動は、
エッソ本社内において、次第に認められる存在になっていきました。
もちろん、その裏には尾崎さんを筆頭とするティームの人々の尽力が
あったことは言うまでもありません。

「今でもそうですが、スポンサーにとって何がメリットになるのか?
 何をしたら喜ばれるのか? をいつも考えていました。
 パブリシティを積極的に打ったのも
 その一貫でしたね。そのお陰で専門誌だけじゃなく、女性誌にも
 ティームの情報が載りましたからね」

こうしたESSO RACING TEAMの成功を受け、この後
日本のプライベート・レースシーンにも大手広告代理店が
積極的に参入するようになります。

「電通がミノルタ(酒井レーシング)でしたね。
 ESSOのあとフシダ・レーサーズのマネージャーをやっている時に
 某代理店が来ましたが、ティームにお金を使わせるだけで結局なんのスポンサーも
 持ってきませんでした。当時のオンワードだって、鮒子田さん自身が
 獲得してきたスポンサーでしたからね」

そう、まさにESSO RACING TEAMが活動を始めたこの時期は
様々な面において日本のモータースポーツの世界が
転換を図ろうとしていた時代でもあったのです。

(つづく)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

※過去の記事

ESSO RACING TEAM STORY プロローグ1
ESSO RACING TEAM STORY プロローグ2
ESSO RACING TEAM STORY 第1回
ESSO RACING TEAM STORY 第2回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回
ESSO RACING TEAM STORY 第3回補足
ESSO RACING TEAM STORY 第4回
ESSO RACING TEAM STORY 第5回
ESSO RACING TEAM STORY 第6回
ESSO RACING TEAM STORY 第7回
ESSO RACING TEAM STORY 第8回
ESSO RACING TEAM STORY 第9回
ESSO RACING TEAM STORY 第10回
ESSO RACING TEAM STORY 第11回
ESSO RACING TEAM STORY 第12回
ESSO RACING TEAM STORY 第13回
ESSO RACING TEAM STORY 第14回
ESSO RACING TEAM STORY 第14回追記
ESSO RACING TEAM STORY 第15回



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2011.02.16 Wednesday

ESSO RACING TEAM STORY 第15回



Motor Press(モータープレス)
極個人的な自動車偏愛日記




【エッソ・スポンサー秘話】

1972年の日本グランプリにおいて
レーシング・ティームとしての船出を果たした
ESSO RACING TEAMですが、一方でスポンサーである
エッソ・スタンダード石油(当時)側は、
どのような戦略を画策していたのでしょうか?

そこで、当時のエッソ宣伝部の担当者であった
西尾直毅さんにお話を伺ってきました。

ESSO RACING TEAM エッソ レーシング ティーム 西尾直毅

西尾さんは、1964年にエッソ・スタンダード石油に入社。
1969年まで仙台支店のセールスを担当した後、
1970〜71年まで慶応大学のビジネススクールを受講。
そこを卒業されてから、宣伝課に配属されたという経歴をお持ちです。

ちなみに宣伝課の後は、SS部に移籍され、
ヒューストンにあるエッソ本社での勤務も経験。
帰国後に、日本人としては2人目となる代表権をもった
代表取締役副社長を勤められたという方で
現在はUDEX Consulting Inc.の代表取締役として活躍されています。

「日本でエッソの歴史が始まったのは1962年。
 (注:ニューヨーク・スタンダード石油が、エッソ・スタンダード石油と
 モービル石油にこの年分割されたため)
 エッソはゼロに近かったブランドイメージを高めるために、
  "エッソはESSO"というテレビコマーシャルを4月1日から一挙に流すなど
   当時の日本全体の広告費の1/10といわれた、
  ものすごい広告費を投じてPR活動をしました。
  そのお陰で名前は定着したのだけれど、今度はカスタマーに
  どう伝えるか? どうSSでの販促に繋げるのか? というPRが必要になってきました。
  それでエッソの宣伝部に、従来のオーソドックスな宣伝を担当する人に加え
  私のような営業出身の人間が、販促のための宣伝に入ったのです」



尾崎さんが、レースの企画書をもって宣伝部に電話をかけたのは
まさにそんなタイミングでした。

「あれはちょうど10周年記念が終わった頃じゃないかな? 
 たまたま“レースをやりたい”って尾崎さんの飛び込み電話を取ったんですね。
    最初は訳分からん人が来たと思ったけれど(笑)、
   こういう事がやりたいって提案を聞いて面白いと思って、
   申請書を上げたんですよ」

とはいえ、当時社内事情で宣伝費の切り詰めが叫ばれていたこともあり
なかなかすんなりと事は運ばなかったといいます。

「申請書を上にあげてから、色々言われました。なんでやるんだって。
   でも、まずエッソ・マークを付けて走る、そういう動き自体
   どこもやっていない新しいことだったし、自分たちのオウンティームを
   もってレース業界を引っ張り上げていけば、普遍的にエッソのイメージが
 定着することになるという思いがありましたね。
 そうすることで、SSのマネージャーや従業員はもちろん
 お客さんも惹き付けることになると思ったんです。
 私自身はその後すぐに異動になったので、
 レース活動自体にあまり関与していませんけどね。
 当時はペーペーの分際で、まだ30歳でしたけど
 上司も一旦決まったら、すべてを任せてくれました。
 確か本国エクソンの承認など得ずに、日本独自の活動として始めたはずです。
 そういう意味でも自由な気風の会社でしたね」

こうして底辺カテゴリーのプライベートティームに
大資本の石油会社が独占スポンサードするという、前例のない
レーシング・ティームが発足するのですが、当時のエッソ側としては
この活動をどういうものとして捉えていたのでしょうか?

「正直にいうと、最初からそんなに話題になるとは思っていませんでした。
 ただ、こういう活動の先駆者であるというのは大きかった。
 それにSSでの販促に繋げるのが狙いでしたから、商品名を車名につけたり
 新規のSSが開業すると、レースカーを持っていってプロモーションしてもらったり。
 ウェアやステッカーを作って配るといったこともやってもらいました。
 当時、ハイオクガソリンを“エクストラ・ガソリン”、オイルを
 “エクストラ・オイル”として売っていたので、その販売に繋げたかったんです。
 だからそのあと“UNIFLO"という高級オイルが発売されたのに合わせて 
 ユニフロの名前をレースカーに使ったんですね。
 とにかく、そういうことに意味があったので、レースの成績が
 どうのってことは関係なかったのです。
 だからレースの方も私は最初1台走らせれば良いだろうと思っていたくらいでした。
 けど、万が一1台がポシャっても、もう1台あれば……なんて尾崎さんに言われて
 2台走らせることにしたんじゃないかな?」

ESSO RACING TEAM エッソ レーシング ティーム

とはいえ、ESSO RACING TEAM がスタートできた最大の要因は
やはり西尾さんという存在が大きかったのは間違いありません。
(これ以外にも多くの新機軸を在籍中に打ち出していらっしゃいます)

「きっとほかの人が電話に出てたら、それで終わったでしょうね(笑)。
 西尾さんはとても柔軟に対応してくれて、新しいモノを受け入れてくれる
 から、そういう意味でもラッキーでしたね」

と、振り返るのは、今回インタビューに同席いただいた
当時宣伝課にいた高津信子さん。
また、ESSO RACING TEAMマネージャーの尾崎郁夫さんも

「2台走らせる活動費と、各地へのプロモーションの費用を合わせると
   当時としては破格の予算を提示してもらいました。しかも何をするかは
   全部RQに任せっきりだったんです。だからウェアもステッカーも
   エッソではなくRQで作ったものだったんですよ」

と述懐します。

「当時の宣伝部は5〜6人しかいませんでしたから全部が全部はできないんです。
 ですから、そういうものはクリエイティブな方に
 全てをお任せしてやってもらっていました。
 第二次石油ショックまでは、比較的自由に色んなことができたんです。
 また1990年代以降になると、グローバル化、効率化が言われるように
 なりましたから、今じゃとてもこんなことはできないですね」

そう西尾さんが言う通り、ESSO RACING TEAMは、
人材的にも、時代背景的にも、最適な材料が揃った絶妙な
タイミングでスタートしたといえるのかもしれません。

このESSOとレーシング・クォータリーとのコラボレーションは
翌1973年シーズンにさらに発展していくのですが
その話はまた後日。
(つづく)

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※過去の記事

ESSO RACING TEAM STORY プロローグ1
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